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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・3

同じ名前をつけた例を見てきましたが、逆の例もあります。織田信長以前に「信長」という名はありますが、江戸時代に「信長」という名をつけることは避けられたといいます。江戸時代の系図では「秀吉」「家康」という名も見ません。おそらく、これらの名は禁忌とされたのでしょう。

同姓同名の話を続けますが、先祖、子孫の関係ではありませんが、以下の人々が同姓同名です。

松平家忠(1547-82)、形原松平家、家広の子。紀伊守。家康のいとこに当たる。
松平家忠(1555-1600)、深溝(ふこうず、ふこうぞ)松平家、伊忠の子。主殿助。関ヶ原の戦いでは鳥居元忠らと伏見城を守り戦死。『家忠日記』を遺したことで知られる。
松平家忠(1556-81)、東条松平家、忠茂の子。深溝松平家忠の妹婿。若くして病死したため、東条松平家は家康の四男忠吉が継いだ。

武田信繁(1390-1465)、安芸武田氏の当主。子孫に若狭武田氏。
武田信繁(1525-61)、武田信虎の子で信玄(晴信)の弟。左馬助の唐名である「典厩(てんきゅう)」と呼ばれる。川中島の戦いで戦死。

牧野康成(1548-99)、名は「やすしげ」と読む。定成の子。子の信成は下総関宿藩主。子孫は転封を経て常陸笠間で廃藩を迎えた。
牧野康成(1555-1609)、名は「やすなり」と読む。成定の子。初め貞成で家康より一字を賜って康成と名乗ったという。孫にも同名の康成がいる。関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、上田城攻めに参加したが、軍令違反により蟄居させられた。子孫は上野大胡から転封を経て越後長岡で廃藩となる。幕末に河井継之助を出したことで知られる。

松平氏は「十八松平」と言われるほど支流が多く、武田氏も甲斐以外に安芸や若狭にも支流がいたことから、同姓同名が出てきたのも仕方ないのかもしれません。本家に対して、この名前を使ってよろしいでしょうか、といちいちお伺いを立てていたわけではないでしょう。

江戸時代になると、「酒井忠勝」という同姓同名の二人が知られています。酒井氏というと松平氏と祖先を同じくすると言われ、大きく二つの系統に分かれます。戦国時代には酒井忠次が有名ですが、彼は左衛門尉(さえもんのじょう)家の出身です。孫に出羽庄内藩主の酒井忠勝(1594-1647)が出ます。ちなみに、忠次の三代前にも「忠勝」という人物がいます。もう一つの系統が雅楽頭(うたのかみ)家で、のちに下馬将軍と言われて権勢を振るった大老酒井忠清を出しています。この雅楽頭家の分家で若狭小浜藩主に酒井忠勝(1587-1662)という人物がおり、老中、大老を務めました。本多忠勝にあやかったわけではないでしょうが、「忠」は「忠義」に、「勝」は「勝利」に通じますから、縁起のよい字としてどこの家でもよく使われた字なのでしょう。信長の長男は信忠ですし、家康の三男も秀忠、信玄の四男は勝頼、謙信の養子も景勝と名乗っています。この二人の酒井忠勝、同時代の同姓同名ですが、普段は宮内大輔様、讃岐守様などと役職名で呼び分けていたでしょうから、支障はなかったでしょう。直接名前を呼ぶことは失礼であって、現代でも役職名で呼ぶことが多いというのは以前書いたとおりです。

ちなみに、中国や朝鮮では名字(姓)の数自体が少なく、中国では約五千と言われています。「張三李四」という言葉がありますが(張家の三男と李家の四男の意味で、どこにでもいる平凡な人物のこと)、張さんや李さん、王さんだけでそれぞれ一億人近くいます。韓国の姓は数百と言われ、数の多い上位五つの姓だけで人口の過半を占めています。また、中国も朝鮮も一字姓が多く、諸葛さんや司馬さん、公孫さんといった二字の姓は珍しい部類に入ります。姓が一字で名前も一字にしてしまうと、同じ名前の人だらけになってしまうため、近年では二字の名前にする例が多いと言われています。中国の最近の指導部を見てもおわかりいただけると思います(毛沢東も周恩来も二字の名前ですが)。

一方、日本では自分の領地の名前を名字(苗字)にする例が多く、割と簡単に名字を変えてしまう傾向にあり、名字の数は二十万とも三十万とも言われます。とはいえ、やはり人と同じ名前をつけるのは避ける傾向にあります(その時代での流行というものはありますが)。坂本龍馬(この人が政治的に何事かなした人か知りませんが)にあこがれて、自分の子供に「龍馬」と名付けるなどといった話は近年になってからです。演劇や落語などの芸能関係の人や社長職などの襲名は別として、一族内でも先祖とまったく同じ名前をつける例はいまもほとんどないでしょう。

戦国時代に話を戻しますが、この時代にほとんど唯一の例外として、いろいろな家で名乗った例があるのが「長政」という名前です。浅井長政、浅野長政、黒田長政などが有名ですが、ほかにも系図を見ると「長政」という名前は多くあります。みな浅井長政にあやかったわけではないと思いますが、「政(まつりごと)に長じる」という願いが込められているのかもしれません。

ここまで先に下の名前についての話をしましたが、名前をもらうというのは珍しいことです。家臣が主君から一字をもらう例は少なくありませんが、まったく同じ名前にするのは一族やきわめて親しい間柄のときに限られます。そして、次回から上の名前(名字)の話をしますが、上の名前となるとさらにほとんど例がありません。
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