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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」外伝

「羽柴」の名乗りについての考察・2

同じ名前を名乗る、もらう
前回は一字を賜るという話をしましたが、「羽柴」の名乗りについての考察から少し離れて、まれな部類ですが、同じ名前をつけた例を見てみましょう。

伊達政宗(藤次郎、仙台藩主)
独眼竜の渾名で有名ですが、彼の名は伊達氏中興の祖であるご先祖様、大膳大夫政宗にあやかったものです。先祖とまったく同じ名前です。

佐竹義重
十八代目の当主は鬼義重として知られていますが、鎌倉時代の先祖(四代目当主)に義重という人物がいます。また佐竹氏の歴代当主には義宣、義篤という人物も二人います。

相馬盛胤、義胤
盛胤-顕胤-盛胤-義胤-利胤-義胤と続きます。平将門の子孫と言われ、下総を本領としましたが、のちに一族が陸奥行方郡に移ります。たびたび伊達氏と争いましたが最後まで屈服せず、義胤が秀吉の小田原攻めに参陣し、陸奥の所領を安堵されます。関ヶ原の戦いでは長年に渡る伊達氏との確執から上杉征伐に参加しなかったため、所領を没収されましたが、子の利胤が家名再興を願い出て家名再興を果たします。子孫は陸奥中村(相馬)藩主として廃藩を迎えます。古くからの馬産地として知られ、相馬の野馬追いの伝統行事が知られています。





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伊達氏と縁戚関係にあるが、政宗とは激しく争う。周囲が伊達氏の支配下に入ってもなお戦い続け、所領を死守した。秀吉の小田原攻めに救われる。

岩城親隆、常隆
陸奥の磐城(現福島県いわき市)を領した岩城氏ですが、親隆-常隆という父子の子孫に親隆-常隆という同じ名前の父子がいます。岩城氏は桓武平氏の血を引くと言われ、一時は佐竹氏の内紛に介入するほどの勢力を持ちますが、のち佐竹氏や伊達氏の勢力拡大に圧迫され、佐竹氏からの養子を迎えます。直系の子孫は伊達氏の家臣になりますが、佐竹氏の系統が続いていた出羽亀田藩二万石の岩城氏を継いで直系が復活します。幕末は奥羽越列藩同盟に参加しますが、佐竹氏の久保田藩の呼びかけで同盟を脱退して新政府軍に味方します。しかし庄内藩に敗れて和議を結び、今度は庄内藩とともに新政府軍と戦いますが、敗れて降伏、二千石を減封されて明治を迎えます。

上杉景虎
上杉謙信(長尾景虎)の養子。謙信が気に入って自分と同じ名を名乗らせたといいます。なお、一般に、謙信は長尾景虎から上杉政虎(関東管領上杉憲政から「政」の字を与えられる)に改名したとされているので、謙信が「上杉景虎」と名乗ったことはありません(政虎と改名する前にすでに上杉氏に改めていたという説はある)。

朝倉孝景
教科書にも載っている分国法「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」を定めた人物として有名ですが(ただし、彼が定めたかどうかについては疑問を呈する説も多い)、彼の名乗りは、教景、敏景、孝景などと変わっており、孝景は義景(例のアレ)の父も名乗っています。また朝倉宗滴の名は「教景」で父が一時期名乗っていた名前と同じです。朝倉氏の家系は異同が多いのですが、氏景や貞景といった名前は複数あります。



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例のアレ。評価しようというつわものはいないか?w

松浦隆信
名字は「まつら」と読みます。出家名から先代を道可、後代を宗陽とも呼び分けます。有名なのは先代の方で(後代は肥前平戸藩の三代目藩主)、平戸を開いてポルトガルとの交易をおこないました。子が鎮信(法印)です。なお、三代目藩主隆信の子も鎮信(天祥)といいます。松浦氏は嵯峨源氏渡辺氏の流れを組み、渡辺綱(大江山の酒呑童子退治で有名)の子孫と伝えられます。渡辺綱(わたなべのつな)もそうですが、子孫には一字名の人物が多く、松浦隆信や鎮信の前後は例外ですが、平戸藩主も幕末の松浦詮など一字名の人物がおり、この時代としては珍しい名前と思われていたようです。ちなみに龍造寺隆信が同じ名前ですが、こちらは初名が胤信で、大内義隆から一字を賜って隆信と名乗りました。

河野通直
同姓同名の極めつけはこの人(人々)。河野氏は河野水軍で有名な伊予の豪族で、源平合戦、元寇でも活躍しました。河野通直と名乗る人物は多数おり(一説に四人)、朝倉孝景(敏景)のように中途で改名した者もいるようですが、当時は官名で区別したのでしょうか。河野通宣と名乗る人物も複数おり、こうなってくると芸能界の襲名のようです。

島津家久
貴久の四男中務大輔と貴久の二男義弘(朝鮮出兵での鬼島津、関ヶ原の退き口などで有名)の三男で初代の薩摩藩主の名が家久で同名です。後者は初名を忠恒をといい、のちに家康から一字を賜って家久と改名したと伝えられていますが、一説には島津家最強と謳われた叔父家久にあやかったとも言われています。



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大友家との耳川の戦い、龍造寺家との沖田畷の戦い、豊臣家との戸次川の戦いなど数々の戦捷は特筆に値する。

織田信秀
信長の父(備後守)と信長の六男(侍従)が同名。後者は信長の嫡孫秀信などと同様に秀吉から一字を与えられたものでしょうか。島津家久の場合もそうですが、権力者から一字を与えられるに際して「一族の者と同じ名前になりますので」という断り方はできなかったようです。

石松丸秀勝、羽柴秀勝、豊臣秀勝
石松丸は秀吉の近江長浜時代にできた子と言われますが幼くして死去します。秀吉にとっては初めての子であり、よほど思い入れがあったのか、信長の四男で養子に迎えた子於次にも秀勝と名乗らせています。この羽柴秀勝も十代で病死したため、今度は甥で秀次の弟に当たる小吉にも秀勝と名乗らせています。妻は浅井長政の三女であるお江です。朝鮮出兵では渡海しますが巨済島で病死。以後、秀吉は秀勝の名を使わなくなり、翌年もうけた子には秀頼と名付けています。

真田信繁(幸村)
もと武田家に仕えていた父昌幸が尊敬していた武田信繁(信玄の弟、典厩)にあやかって信繁と名付けたと言います。別の家の人物の名をそのままもらうのはたいへん珍しい。



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島津家にも「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と絶賛された。
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