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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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■御館の乱・おかわり

御館の乱をめぐるいくつかの視点

「玉」の行方

物事の趨勢を左右する大事なものや人のことである。謙信の在世中、その正式な家督相続者にされたと思われる道満丸(上杉景虎と長尾政景の娘の間の子、景勝にとっても甥に当たる)こそが「玉」であった。これを手にした者が、次の上杉家を統べることができるのである。謙信の「遺言」に従って春日山城の本丸に入った景勝は、景虎に道満丸の引き渡しを要求したと思われる。しかし、景虎は道満丸が幼少であることなどを理由に景勝の要請を拒否したのではないだろうか。まだ八歳の子供である。景虎としては分別がつくまで、要するに、父の意向を呈して動けるようになる歳までは手放したくないというのが本音だったろう。結局、交渉は決裂し、景虎は道満丸を連れて春日山城を退去し、御館に入ってしまう。

開戦当初は重視された道満丸だったが、乱が景勝の勝利に終わるころには不要のものとなっていた。景虎に勝利し、謙信の後継者の地位を固めつつあった景勝は上田衆を中心とした集権化を図っていた。そんな景勝には古い権威も妥協の産物であった「正当な後継者」ももはや必要なかったのである。しかし、この後継者をめぐる「内乱」は謙信の意向とは遠いものだったろう。景勝は異常と言っていいほど寡黙だったが、これには謙信の意向とは異なり、家督継承が血で染まってしまったことも一因だったのかもしれない。

痛くない領地割譲

乱の転機となった景勝と勝頼の和睦。その交渉条件だが、黄金一万両というのはおそらく破格の条件だっただろう。長篠の戦いに敗れて軍事力の再建に努める武田家であるから、軍資金に余裕があったわけではない。もう一つの条件である北信濃飯山城と東上野(西は武田領)の割譲だが、この二つと領地とも景虎派の勢力があった地域である。もとは上杉家の領地とはいえ、景勝からすれば敵方の勢力地である。勝頼に渡したところで景勝の懐は痛まないのである。勝頼としてもそんなことはわかっていただろう。要は領有の正当化ができればよかったのである。勝頼は景勝と景虎の和睦交渉を仲介すると言ったが、景虎とはほとんど交渉していない。

景勝の展望

景勝は乱のことを「不慮之錯乱」などと言っているが、これは景虎も同じである。双方とも最初から戦うことを想定していたわけではない。しかし、内乱になった以上、景勝はその後の(勝った後の)展望をどのように描いていたのだろうか。まず眼前の勝ちを拾うためには後顧を憂えている余裕はなかったのかもしれない。

越後国内を二分しての争いとなり、乱により上杉家の戦力は大きく落ちた。戦略的劣勢を覆すためにはやむを得なかったとはいえ、武田家との和睦で信濃、上野の所領も割譲してしまった。また謙信時代、織田家との外交方針は同盟から敵対に転じていたが、反織田の武田家と同盟を結んだことから、景勝も反織田の立場を取り続けることになった。武田と上杉の甲越同盟は織田、徳川、そして北条と周囲を敵対勢力に囲まれることとなったのである。同盟以降、武田家は東上野で、上杉家は北陸方面でそれぞれ戦いを進めていくが、越後では御館の乱の恩賞に不満を持った新発田重家の乱が起こり、乱は長期化。武田攻めが始まっても上杉家は援軍を送れず、武田家は滅亡し、同盟も消滅した。以後、越中、信濃、上野から織田家の攻勢を受け、景勝も滅亡を覚悟するに至る。
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