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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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いまの「戦国人物紹介」の方式だと、書きたいときに書きたい人を書けないのが悩み。

書きためることはできるんですけどね。

今回は「戦国IXA」で新登場のこの人を紹介してみたいと思います。

昔書いた文章を引っ張り出してみたw




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馬を入れたのは秀逸ですね。おもに水軍を率いて活躍しましたが、

馬とは切っても切れない関係にあります。


【もう一人の加藤】

生徒:加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍の一人ですが、もともと秀吉の家臣だったんですか?

先生:だいたい正解。秀吉に仕えてその養子秀勝(於次)に近侍したが、のちにまた秀吉に属して中国攻めに従軍している。

生徒:於次(お次)こと羽柴秀勝は信長の実子で秀吉の養子となった人ですね。

先生:そう。ほかにも秀勝という人はいるけど、それはまた改めて。ところで、嘉明の父は最初三河(愛知県)にいたんだ。

生徒:え、そうなんですか。家康の家臣だったんですね。

先生:ちょうど彼が生まれた年に三河一向一揆が起こって、嘉明の父は嘉明を連れて三河から近江(滋賀県)に移った。

生徒:難を逃れたわけですね。で、それからは秀吉に仕える、と。

先生:物心ついたときには三河を離れていたけど、元徳川家臣の家というのはあとで役に立ったようだ。

生徒:秀吉に仕えるまでは馬を商いする馬喰(ばくろう)をしていたという話もありますが、官名も左馬助だし馬に縁のある人だったんでしょうか。

先生:さあ? 少なくとも彼の生まれた永禄六年(1563)は午年ではないようだけど。この人はむしろ水軍を率いたことで知られている。

生徒:四国、九州攻めから小田原の陣、朝鮮出兵までずっと水軍の将ですもんね。

先生:九鬼嘉隆のように元海賊衆、というわけでもないのにね。譜代の家臣として豊臣家の水軍を任されたのかな。

【賤ヶ岳の九本槍?】

生徒賤ヶ岳の七本槍の中では出世した方ですかね。

先生:そもそも七人の中に入ってるしね。もとは九人だったらしい。

生徒:戦死した石河兵助と弟秀長の家臣、つまり陪臣(ばいしん、家来のそのまた家来)の桜井左吉を除いたそうです。

先生:どうせ宣伝目的だからね。それと、七人の中では秀吉の縁戚である福島正則加藤清正の二人は別格。

生徒:ともに秀吉政権の晩年には二十万石程度の大名になってますね。

先生:他が数万石程度の大名にしかなれなかったことからも、賤ヶ岳での勝利を宣伝するための使い捨てという感じだね。

生徒:その中で加藤嘉明は伊予で十万石を与えられています。早くから秀吉に仕えていたからですかね。

先生:当人が若かったせいもあるし、秀吉も若い上に成り上がりだから譜代の家臣がいなかったせいもある。

【ひととなり】

生徒:この人のエピソードって多い方でしょうか。馬を商っていたから、悍馬(気性の荒い馬)でも乗りこなせたという話がありますが。

先生:他には朝鮮出兵時に家臣の塙団右衛門を使って抜け駆けの戦功を挙げた話、家臣の性格について語った話があるね。

生徒:生前に書いておいた誓紙で幕府への忠節を示した話もあります。

先生:子の明成が堀主水事件で幕府から詰問されたときに、それを出して嫌疑を晴らしたという話だね。

生徒:でも結局は明成の代にいったん改易されてしまうんですよね。

先生:親の心子知らず、だね。

生徒:これらの話からは機転が効いて、しかも割にしゃべる武将という印象を受けます。

先生:本人がそういうことを言ったかはわからないし、仮託した場合もあるんじゃないかな。

生徒:彼の口から言わせたということですね。

先生:むしろ寡黙な武将という印象の方が強いかな。戦場では沈着冷静な指揮ぶりで知られているし、本人もそう思っていたようだ。

生徒:自分の武勇について誰も批判していないのなら、あえて自分から語らなくてもいい、と言った話ですね。

先生:こんな話もある。小姓たちが火箸を焼いて、知らずにさわった人が熱いと叫ぶのを見て面白がっていたそうだ。

生徒:まさかそのいたずらに引っかかったとか。

先生:そう、たまたまその場に来た加藤嘉明が焼けた火箸をつかんだ。

生徒:そりゃ手から煙も出ますね。

先生:しかしそれにも構わず、灰を静かにならすとその上に字を書き、火箸をさして去ったという。

生徒:小姓たちからしたら冷や汗ものですね。

先生:下手をしたら、こんなことをしたのは誰だ、と殺されてしまうかもしれないからね。

生徒:でもそれって寡黙というよりはむしろ…。

先生:派手さはないが寡黙、冷静なところが幕府には認められて、会津で四十万石を与えられるまでになったとしておこう。


しかし、まあ、子の明成という人がダメな人で、加藤(嘉明)の家はいったん嘉明の遺言のおかげで助かるのですが、結局はお取り潰しになってしまうんですね。

かなりの守銭奴で、しかも一分(いちぶ)金だけを好んで集めたので、世の人は官名の式部(しきぶ)少輔をもじって、「加藤一分殿」と称したそうです。

若い明成(といっても四十過ぎだが)は先代からの老臣堀主水(もんど)と対立、ついに主水は明成の元を去ったのですが、その際に会津城に鉄砲を撃ちかけ、さらに橋を焼き払い、関所を押し通って行きました。激怒した明成は幕府に申し出てようやく主水を捕らえ、眠らせないようにするという拷問を加えてねちねちと処刑。縁切寺である鎌倉東慶寺に逃げ込んだ主水の妻子の引き渡しまで要求しています。

その後、病のために藩を維持できない、と願い出て四十万石は没収、子明友に石見で一万石が与えられました。幕府に「四十万石に代えても主水を捕らえたい」と申し出た言質を取られたためとか、鎌倉東慶寺や主水が逃げ込んだ高野山にまで手を出したためとか、領地没収にはいろいろと事情があったようですが、幕府の改易方針にはまってしまったというところでしょうか。

 

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