兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79
北条氏康の七男(八男とも)。母は遠山康光の妹。氏政や氏照などの異母弟になる。一説には関東一の美男子だったという。
三国同盟が成立すると、武田家に人質として送られたというが、近年では否定する説が多い。初め北条幻庵の婿養子となって三郎を称すという。1569年、越相同盟が締結され、北条氏政の二男国増丸を謙信の養子に出すことが決められるが、幼少を理由に氏政が難色を示したため、翌年、代わりに三郎が越後に送られる。景勝の姉、あるいは妹(清円院、長尾政景の娘、謙信の姪)を娶り、謙信の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられる。1578年の謙信死後、上杉景勝と家督を巡って争う(御館の乱)が敗れて、自害した。
まとめるとこれだけの人なのだが、少し紙幅を費やしたいと思うのは、謙信の後継者として、景虎と景勝の地位がいまだに確定しないからである。景虎についての研究が進んでいるが、誰が後継者だったのかについてはいくつかの説があって定説を見ない。
景虎後継者説と景勝後継者説
1575年、謙信は景勝に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から景勝に改めさせた(ちなみに、『信長公記』には1581年の巻に二ヶ所登場するが、いずれも「長尾喜平次」である)。また、この頃作られた軍役帳でも「御中城様」として一門の筆頭たる地位を与えられている。逆に景虎は軍役帳に名が見えない。しかし、このことは軍役を課される、すなわち家臣ということであるとして、景虎は特別扱いで、景勝は家臣扱いだったのではないかという説もある。
謙信の「遺言」に疑問を唱える声もある。謙信は卒中で倒れたとされるが、その枕元で直江景綱の未亡人が「家督は景勝に譲られますか」と尋ねたところ、口のきけない謙信はうなずいて意思を示したという話が残っている。しかし、卒中で倒れた謙信が意識を取り戻すのも不審であるし、この話自体作為的である。
景虎が後継者であったからこそ、景勝は先に軍事的行動を起こして春日山城の本丸、金蔵を占拠したのだという見方もできる。二つの説を並べてみると、最終的には勝利した景勝の方が分が悪い。
後継者二人説
越後国主、長尾家総帥の座を景勝に、関東管領職と山内上杉家の家督を景虎に、とする説である。たしかに越相同盟が破綻した後も景虎は追放されず、一門としての地位を保っている。また景勝も遅れて権力の強化が図られ、両者が並立した地位にあったと見ることはできる。 しかし、謙信自身、越後国主(守護職ではない)、関東管領、山内上杉氏の家督など、様々な地位や職を身にまとって、みずからの権力の強化、正当化を図ってきたのであり、後継者の段階で分散するようなことは考えにくい。
後継者不在説
行き当たりばったりで景虎を後継者にしてみたり、景勝に代えてみたり、結局は確たる後継者を決められないうちに急死したのではないかとの説もある。 人間五十年と唄った信長は1575年、四十二歳で織田家の家督を嫡男信忠に譲っている。謙信に実子はいなかったが、家臣の家名復興には関与しており(意図はともかくこれは信玄も同様)、謙信が後継者問題に手を打っていなかった、あるいは無関心だったということはないだろう。
ただ、後世の人にわかりづらいというのは、川中島の戦いのところでも書いたが、やはり上杉家の史家は怠慢ではないかというところに行き着くのだが。次回は御館の乱。
026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79
北条氏康の七男(八男とも)。母は遠山康光の妹。氏政や氏照などの異母弟になる。一説には関東一の美男子だったという。
三国同盟が成立すると、武田家に人質として送られたというが、近年では否定する説が多い。初め北条幻庵の婿養子となって三郎を称すという。1569年、越相同盟が締結され、北条氏政の二男国増丸を謙信の養子に出すことが決められるが、幼少を理由に氏政が難色を示したため、翌年、代わりに三郎が越後に送られる。景勝の姉、あるいは妹(清円院、長尾政景の娘、謙信の姪)を娶り、謙信の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられる。1578年の謙信死後、上杉景勝と家督を巡って争う(御館の乱)が敗れて、自害した。
まとめるとこれだけの人なのだが、少し紙幅を費やしたいと思うのは、謙信の後継者として、景虎と景勝の地位がいまだに確定しないからである。景虎についての研究が進んでいるが、誰が後継者だったのかについてはいくつかの説があって定説を見ない。
景虎後継者説と景勝後継者説
1575年、謙信は景勝に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から景勝に改めさせた(ちなみに、『信長公記』には1581年の巻に二ヶ所登場するが、いずれも「長尾喜平次」である)。また、この頃作られた軍役帳でも「御中城様」として一門の筆頭たる地位を与えられている。逆に景虎は軍役帳に名が見えない。しかし、このことは軍役を課される、すなわち家臣ということであるとして、景虎は特別扱いで、景勝は家臣扱いだったのではないかという説もある。
謙信の「遺言」に疑問を唱える声もある。謙信は卒中で倒れたとされるが、その枕元で直江景綱の未亡人が「家督は景勝に譲られますか」と尋ねたところ、口のきけない謙信はうなずいて意思を示したという話が残っている。しかし、卒中で倒れた謙信が意識を取り戻すのも不審であるし、この話自体作為的である。
景虎が後継者であったからこそ、景勝は先に軍事的行動を起こして春日山城の本丸、金蔵を占拠したのだという見方もできる。二つの説を並べてみると、最終的には勝利した景勝の方が分が悪い。
後継者二人説
越後国主、長尾家総帥の座を景勝に、関東管領職と山内上杉家の家督を景虎に、とする説である。たしかに越相同盟が破綻した後も景虎は追放されず、一門としての地位を保っている。また景勝も遅れて権力の強化が図られ、両者が並立した地位にあったと見ることはできる。 しかし、謙信自身、越後国主(守護職ではない)、関東管領、山内上杉氏の家督など、様々な地位や職を身にまとって、みずからの権力の強化、正当化を図ってきたのであり、後継者の段階で分散するようなことは考えにくい。
後継者不在説
行き当たりばったりで景虎を後継者にしてみたり、景勝に代えてみたり、結局は確たる後継者を決められないうちに急死したのではないかとの説もある。 人間五十年と唄った信長は1575年、四十二歳で織田家の家督を嫡男信忠に譲っている。謙信に実子はいなかったが、家臣の家名復興には関与しており(意図はともかくこれは信玄も同様)、謙信が後継者問題に手を打っていなかった、あるいは無関心だったということはないだろう。
ただ、後世の人にわかりづらいというのは、川中島の戦いのところでも書いたが、やはり上杉家の史家は怠慢ではないかというところに行き着くのだが。次回は御館の乱。
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無題
二人に別々の役職を渡すという説はロマンを感じるので好きですw 血なまぐさいのがあんまり得手じゃなくて…
謙信も自分がぶっ倒れてこんなことになるとは思わなかったんだろうなあと妄想します。人間五十年とか超余裕だし、八十過ぎても入れます。みたいなw
謙信も自分がぶっ倒れてこんなことになるとは思わなかったんだろうなあと妄想します。人間五十年とか超余裕だし、八十過ぎても入れます。みたいなw
無題
代表的な四つの説の中では一番ありえなさそうな説なんですけど、面白いですよね。
北条との越相同盟が破綻しても景虎は切られませんでしたし(謙信も切り捨てなかったし、景虎も小田原に帰らなかった)、一方で景勝の待遇も上げているのですから、謙信の取った行動はいまも謎と言えるのかもしれません。一瞬でも二人とも立てたらって考えたことがあるかもしれないし。こういう想像の余地があるところが歴史の面白いところです。
決めかねているうちにぶっ倒れたというのもありえないことはないからねえw
ちなみに、いまのところ、景虎と長尾政景の娘との間の子、道満丸が後継者で、景勝は後見人、って説がもっとも納得がいく説です。
自分の後継者は誰かと言うのは内部だけでなく、外部にも知らせる、認知させるのが普通なので、そのへんは次回見ていこうかと。
北条との越相同盟が破綻しても景虎は切られませんでしたし(謙信も切り捨てなかったし、景虎も小田原に帰らなかった)、一方で景勝の待遇も上げているのですから、謙信の取った行動はいまも謎と言えるのかもしれません。一瞬でも二人とも立てたらって考えたことがあるかもしれないし。こういう想像の余地があるところが歴史の面白いところです。
決めかねているうちにぶっ倒れたというのもありえないことはないからねえw
ちなみに、いまのところ、景虎と長尾政景の娘との間の子、道満丸が後継者で、景勝は後見人、って説がもっとも納得がいく説です。
自分の後継者は誰かと言うのは内部だけでなく、外部にも知らせる、認知させるのが普通なので、そのへんは次回見ていこうかと。