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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

025 上杉憲政
 【うえすぎのりまさ】 1523-79

従五位下兵部少輔・関東管領、初め憲当と書いた。上野(こうずけ、いまの群馬県)平井城主。河越夜戦に敗れ、力を失う。北条軍に圧迫され、越後に逃走。長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を譲った。

河越城攻めで旧勢力を糾合したためか、世代的にも上のように思われるが、北条氏康の方が八歳年上になる。謙信よりは七歳年上になる。ただ、家督を継いだのは九歳のときで、氏康の二十七歳(あるいは二十四歳)よりもはるかに早い。

敵である北条側の記録が残ったため、憲政に対する評価は散々である。幼少のころから甘やかされて育ち、政治を顧みず、白拍子を侍らせては遊芸に興じ、佞臣を近づけて忠臣を遠ざけた、このような具合である。貶める資料には事欠かない。父憲房が五十歳を過ぎてからできた一人息子であり甘やかされたと言うが、その父は憲政が三歳のときに死去している。山内上杉の家督と関東管領職は養子であった憲寛(古河公方足利高基の子)が継いだが、1532年には奪回している。しかし、憲政が山内上杉氏を継いだときには、関東管領とは言え、上野と武蔵北部を領するだけの地域勢力に転落していた。

北条氏に目を転じてみると、1541年には二代目の氏綱が死去、子の氏康が家督を継いでいた。この頃はまだ甲相駿(武田、北条、今川)の三国同盟は成立しておらず、北条氏は領国の西側で武田晴信、今川義元と勢力争いを繰り返していた。

氏康が西部で拘束されている状況を好機と見た山内憲政と扇谷朝定は、1545年九月、大軍を催して河越城に迫った。憲政は敵対していた古河公方の足利晴氏にも参陣を呼び掛けた。晴氏の室は氏綱の娘であったが、十月には包囲網に加わった。軍記物の類は連合軍の兵力を「八万」としているが、実際は二万程度であったという。二万としても、当時の関東では例のない大軍である。氏康は晴信との関係を改善し、義元とも一応の和睦を成立させたが、いつ領土問題が再燃するかわからない状態であった。連合軍はこのまま包囲を続けて氏康を締め上げれば、氏康が屈服し河越城を放棄せざるを得ないと見ていただろう。実際、氏康は山内上杉氏と近かった武田晴信を通じて講和の道を模索していたし、古河公方の晴氏にも繰り返し謝罪の使者を送っていたからである。

翌年になると、氏康は行動を開始する。四月に小田原を出て河越城に迫り、もっとも少数の扇谷軍を夜明け前に奇襲する。兵力に劣る扇谷軍は壊滅し、当主の朝定も戦死した。河越城の北条綱成らは城を出て古河公方の陣を襲撃、戦意の低かった公方軍は晴氏とともに潰走した。憲政の軍も敗北し、三千と言われる死者を出して敗北した。

以後は北条氏の攻勢にさらされ、家中の裏切りも相次いだため、1552年に越後に落ち延びて長尾景虎(上杉謙信)を頼ることになる。その後は景虎を養子とし、関東管領職、山内上杉氏の家督、系図、重宝を譲り、剃髪して光徹と称し隠居する。こうして憲政は静かな余生を過ごすかに思われたが、謙信死後の家督争いが憲政を再び政治の表舞台に呼び戻す。



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だからこの人誰?w

指揮兵数は多いものの、兵科統率はほぼ全滅。育てても合成素材になるだけ?
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