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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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扇谷上杉朝定が敗死して扇谷上杉氏が滅んだ後も、扇谷上杉氏を称した人はいるんだけども、そこは割愛。南朝が北朝と合一を果たした後も後南朝というのがあるんだけども、ほとんど顧みられることはないのと同様に。後南朝は赤松氏をやるときに触れるでしょうが。きりがないというか、潔さというか、滅びの美学とでも言いましょうか。朝定が敗死して、扇谷上杉氏は滅亡、と。スパッと。

上杉景虎(謙信じゃなくて養子の方)について調べているのだが、これがなかなか面白い人物。

この人を生かした歴史を描こうとすると、景勝と兼続には死んでいただかねばらないと思うのだが(共存の目をなしとはしない)、生きて上杉家を継いでいたとすれば、東国には上杉、北条、武田の三国同盟が成立した可能性がある。そうなれば、信長の東進を妨げる十分な抑止力足り得たのではないかと想像してしまうのだが。この雄図を打ち砕いて、景勝を擁立したのが兼続とすれば、いかに狭量かと非難したくもなる(もとから兼続には批判的)。

景虎支援から転じて景勝を支援した武田家は上杉家と結ぶが、信長の武田攻めによって武田家は滅亡。上杉家も本能寺の変なくばほどなくして滅んでいたであろう。兼続のやったことは景勝を守って、上杉家を危うくしたのだが、この男は懲りずに、二十年後も同じ過ちを犯して上杉家を滅亡寸前にまで追い込んでいる。きれいごとばかりをぬかすが、大局が見えていないのである。

景虎の可能性じゃなくて、兼続批判になってしまったが。近日公開予定。
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