兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
扇谷上杉氏の人々
上杉定正 【うえすぎさだまさ】 1443-94
讒言で名臣を殺したダメ君主の典型。
扇谷上杉持朝の三男。1473年、上杉政真(扇谷上杉八代当主)が戦死すると、太田資長(道灌)らに擁立される。山内上杉顕定とともに古河公方足利成氏と対立するが、山内上杉家臣であった長尾景春が反乱し、両上杉氏は敗走する。その後は太田道灌の活躍もあって乱は終息、古河公方との和睦も成立したが、今度は山内上杉氏との仲がしっくりいかなくなる。また道灌の声望が高まるとこれを疑い、1486年に道灌を殺してしまう。道灌が死に際に「当方(扇谷上杉氏)滅亡」と言ったことは有名。その後は上杉顕定と戦ったが、本家である山内上杉氏と分家に過ぎない扇谷上杉氏の力は隔絶しており、次第に劣勢になった。1494年、荒川を渡ろうとして落馬し、それがもとで死去。道灌のたたりとも言われる。
2014年8月の新武将、扇谷定正(上杉定正)。かっこいいので載せておこう。
上杉朝良 【うえすぎともよし】 1473?-1518
五郎、治部少輔。定正の甥で、定正の死により扇谷上杉氏の家督を継ぐ。すでに先代から扇谷上杉氏の家運は傾いていたが、北条早雲、今川氏親と結んで山内上杉顕定と戦い、1504年、武蔵立河原の戦いに勝利する。しかし、翌年、逆に上杉顕定、長尾能景(上杉謙信の祖父)に河越城を包囲されて降伏、江戸城に隠居し家督を朝興に譲った。その後も健在。
今川氏に協力を仰いだことは、当時今川家の重臣だった北条早雲の勢力拡大を招いた。1495年、早雲が扇谷上杉氏の家臣である大森藤頼の小田原城を奪い取ったことを黙認し(すでに大森氏が扇谷上杉氏から離反していたという説もある)、一時は早雲と協力関係にあったが、のちに対立し、1516年には相模岡崎の三浦氏が滅ぼされるなど、扇谷上杉氏の衰退に拍車をかける。
上杉朝興 【うえすぎともおき】 1488-1537
五郎、修理大夫。朝寧の子で伯父定正の後を継ぐ。朝良の子藤王丸の名代のような立場だったともいう。のちに藤王丸を殺して子の朝定を後継に定める。1524年、北条氏綱に江戸城を奪われ、河越城に逃れる。武田氏との連携を模索し、娘を武田信虎の子晴信(のちの信玄)に嫁がせる。仇敵山内上杉氏とも結んで北条氏と一進一退の攻防を繰り返すが、江戸城奪還は果たせないまま河越城に没した。
上杉朝定 【うえすぎともさだ】 1525-46
五郎、修理大夫。朝興の子。北条氏綱に河越城を奪われ、松山城に逃れる。山内上杉憲政と和睦し、駿河の今川義元とも結んで北条氏の挟撃を図る。憲政に古河公方足利晴氏の軍も加えて河越城を囲むも、救援軍に敗れ(河越夜戦)、朝定も戦死してここに扇谷上杉氏は滅亡した。
扇谷上杉氏の人々
上杉定正 【うえすぎさだまさ】 1443-94
讒言で名臣を殺したダメ君主の典型。
扇谷上杉持朝の三男。1473年、上杉政真(扇谷上杉八代当主)が戦死すると、太田資長(道灌)らに擁立される。山内上杉顕定とともに古河公方足利成氏と対立するが、山内上杉家臣であった長尾景春が反乱し、両上杉氏は敗走する。その後は太田道灌の活躍もあって乱は終息、古河公方との和睦も成立したが、今度は山内上杉氏との仲がしっくりいかなくなる。また道灌の声望が高まるとこれを疑い、1486年に道灌を殺してしまう。道灌が死に際に「当方(扇谷上杉氏)滅亡」と言ったことは有名。その後は上杉顕定と戦ったが、本家である山内上杉氏と分家に過ぎない扇谷上杉氏の力は隔絶しており、次第に劣勢になった。1494年、荒川を渡ろうとして落馬し、それがもとで死去。道灌のたたりとも言われる。
2014年8月の新武将、扇谷定正(上杉定正)。かっこいいので載せておこう。
五郎、治部少輔。定正の甥で、定正の死により扇谷上杉氏の家督を継ぐ。すでに先代から扇谷上杉氏の家運は傾いていたが、北条早雲、今川氏親と結んで山内上杉顕定と戦い、1504年、武蔵立河原の戦いに勝利する。しかし、翌年、逆に上杉顕定、長尾能景(上杉謙信の祖父)に河越城を包囲されて降伏、江戸城に隠居し家督を朝興に譲った。その後も健在。
今川氏に協力を仰いだことは、当時今川家の重臣だった北条早雲の勢力拡大を招いた。1495年、早雲が扇谷上杉氏の家臣である大森藤頼の小田原城を奪い取ったことを黙認し(すでに大森氏が扇谷上杉氏から離反していたという説もある)、一時は早雲と協力関係にあったが、のちに対立し、1516年には相模岡崎の三浦氏が滅ぼされるなど、扇谷上杉氏の衰退に拍車をかける。
上杉朝興 【うえすぎともおき】 1488-1537
五郎、修理大夫。朝寧の子で伯父定正の後を継ぐ。朝良の子藤王丸の名代のような立場だったともいう。のちに藤王丸を殺して子の朝定を後継に定める。1524年、北条氏綱に江戸城を奪われ、河越城に逃れる。武田氏との連携を模索し、娘を武田信虎の子晴信(のちの信玄)に嫁がせる。仇敵山内上杉氏とも結んで北条氏と一進一退の攻防を繰り返すが、江戸城奪還は果たせないまま河越城に没した。
上杉朝定 【うえすぎともさだ】 1525-46
五郎、修理大夫。朝興の子。北条氏綱に河越城を奪われ、松山城に逃れる。山内上杉憲政と和睦し、駿河の今川義元とも結んで北条氏の挟撃を図る。憲政に古河公方足利晴氏の軍も加えて河越城を囲むも、救援軍に敗れ(河越夜戦)、朝定も戦死してここに扇谷上杉氏は滅亡した。
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