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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■上杉謙信7

謙信の部隊編成法

戦闘の際、大勢の兵士を急いで部隊に編成しなければならないことがある。
そのようなとき、謙信は、兵士の集団の中へ馬を乗り入れ、縦横無尽に乗り回すのであった。乗り回すにつれ、兵士たちはおのずと前後左右に分かれる。分かれたものがすなわち一つの部隊になるのである。
馬のことだから、兵士たちの中をやみくもに駆け回って、ときにはとんでもないことが起こる。従者に槍を持たせた侍が、その従者と別の部隊になってしまい、従者も主人のそばへ行けず、主人も従者を呼びよせることができない、といったようなことである。
そんな具合の困ったことがしばしば起こったが、謙信はいっこうに気にもしなかった。すべては合戦のためと思い、敵を相手に太刀打ちをするときと同様の激しい意気込みだったからであろう。部下を指揮するにあたっての謙信は、その気合いの激しさ、およそこんなふうであった(『武将感状記』)
 
にわかには信じがたいが、謙信の戦争における天才性、奔放さを表す逸話である。

生涯不犯と酒

さて、最後は謙信個人の話。血液型と性格に相関性がないことは、明治の陸軍が証明していますし、血液型占いがあるのは日本だけだそうですが、謙信の血液型がAB型だったいうと、納得する人も多いかもしれません。六尺の偉丈夫と伝わる一方、遺品の甲冑からは小柄だったともされています。

生涯不犯(ふぼん)をつらぬき妻妾を置かず肉食も禁じたと言いますが、これは仏教に深く帰依していた母、虎御前の影響が大きいようです。七歳で曹洞宗の林泉寺に入り、天室光育のもとで禅を修めています。初めての上洛のときには高野山に参詣し、京で大徳寺の徹岫宗九(てっしゅうそうく、そうきゅう)から在俗のまま「宗心」(しゅうしん)という法号を授けられています。晩年は真言宗にも帰依し、四十五歳で剃髪して法体となり(それまで有髪の僧だった)、高野山の清胤の弟子となって、阿闍梨権大僧都の位階を受けています。

生涯不犯は凡人には理解しづらいもので、もちろん史家で採る者はいませんが、女性だったという荒唐無稽な俗説まであります。武勇に秀でた謙信が女性だったら、ということでゲームやアニメでは女性説を採用しているものも少なくありません。幼少の頃から僧として育てられてきたため、戒律には厳しかった謙信ですが、純粋に戦勝を祈願する信仰心から出たものと思われます。

一方で酒は飲みました。仏教の戒律である五戒の一つに不飲酒(ふおんじゅ)がありますが、要は解釈次第で、酒は飲んでも乱れなければいい、とすれば酒は飲めるということでしょうか。酒の肴はいつも梅干しだったと言いますが、酒と塩分の摂り過ぎが寿命を縮めたのは疑いのないところです。

とても語りつくせませんが、以上で上杉謙信の稿は終了です。次回はリクエスト特集。



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この謙信も中性的。これだけの能力でコスト2は反則ですが・・・。
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