兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
武田、上杉両家に比べるとマイナーな感もある北条家臣。取り上げてみましょう。
・大道寺政繁 【だいどうじまさしげ】 1533-90
孫九郎、駿河守。早雲が東国に下ってきたときに従ってきた人々の子孫である「御由緒家」の出身。氏康以降の北条三代に仕えて、武蔵河越城主、のち上野松井田城主。小田原攻めの際は居城を守ったが、前田利家らの攻撃を受けて降伏。その後は先導役となって成田氏の守る忍城攻めに加わる。小田原開城後は不忠者として秀吉により切腹させられる。子直次は一時遠山姓を名乗るが、のちに幕府に召し出されて旗本となり、旧姓に復す。
・松田憲秀 【まつだのりひで】 ?-1590
尾張守。松田家は早雲の代から北条家に仕えた重臣。小田原攻めでは籠城説を主張するが、秀吉家臣の堀秀政から伊豆・相模を与えるとの誘いがあると内応を約す。ところが、二男秀治が父の裏切りを北条氏直に密告したため未然に終わった。しかし、これにより城内は疑心暗鬼に陥り、落城を早めたとされる。小田原開城後に秀吉に切腹を命じられた。秀治は氏直に従って高野山に赴いたが、氏直の死後は前田家に仕えた。
・板部岡江雪斎 【いたべおかこうせつさい】 1537-1609
名は融成。越中守。僧侶だったが氏康に右筆として用いられたという。のちに評定衆にも加えられる。外交官としても働いており、信玄が死んだ際には甲斐に赴いている。このとき武田家では信玄に容姿が酷似している弟の信廉を替え玉に立てたため、小田原ではしばらく信玄の生存が信じられていたという。小田原開城後は岡野姓に改め、秀吉、家康に仕える。
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