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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■上杉謙信4 あまり知られていない内政手腕

越後は難治の地、治めにくい土地である。一つに越後は大国である。国が広い。いまの新潟県を思えばわかるが、西は越中、信濃、上野に接し、東に往けば出羽、陸奥になる。一方で越後守護のいた府中や、長尾為景や謙信が本拠にした春日山は越後のかなり西寄りの上越にあり、下越には鎌倉時代に領主として入った揚北衆などの国人領主が割拠していた。信玄のように信濃の盆地に点在する豪族を一つ一つ潰していったのとは地理的条件からして異なる。

さて、新潟県には何度か行きました。春日山城(址)も見に行きました。山を登って降りると結構時間がかかります。長野県、山梨県にも行ったことはあります。

新潟県には富山、長野、山形、福島から往来しましたが、東西(南北にも)に非常に長い土地なんですよね。海岸線は300kmを超えるそうです。上越に差し掛かると、必ずと言っていいほど豪雨か豪雪になって、車で走るのに難渋した記憶があります。

いまでこそ越後は日本有数の米どころとして知られていますが、戦国時代の頃にはあまり米が取れない土地でした。関ヶ原の頃で、越後の石高は五十万石ほど(謙信はこのほか上野、越中にも所領があった)。一方、信玄の甲斐・信濃で約七十万石。信長だと、尾張・美濃だけでも八十万石を超えます。米だけで考えると、謙信、信玄の所領は意外と多くないんですよね。動員兵力も限られてきます(米以外にも収入はあるが、結局は食べ物に左右される)

謙信というと、武勇に長けた将として知られていますが、内政にも秀でていました。越後国内の商業を振興し、直江津などの港湾を押さえ、日本海の交易によって巨利を得ていたことが知られています。ようするに関税を取っていたわけです。「青苧(あおそ)」と呼ばれる青い麻や「越後布」を越後の特産とし、青苧を売買する商人から税を徴収していました。謙信の死後には大量の金が遺されていたと記録されています。
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