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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■上杉謙信3

1557年には信玄と三度、川中島で争う。その後、越中へも出兵するが、1560年以降は関東での戦いも増えていく。1560年には上野厩橋城に入り、北条討伐の軍勢を集め、翌年の三月には十万の兵で北条氏の本拠である小田原城を囲む。この間、鎌倉の鶴岡八幡宮において上杉憲政から山内上杉氏の家督と関東管領職を相続し、上杉政虎と改めた。その後、越後に引き返すと、信濃の武田軍を駆逐すべく出兵。四度目の川中島の戦いである。この戦いの詳細は不明であるが、信玄の弟信繁や山本勘助を討ち取るなど、少なくとも戦術的には上杉軍の勝利とされる。

以後は連年関東に出兵、北条氏、武田氏と争うが、信玄が今川氏を攻めると、北条氏康は信玄と断交、1569年には輝虎(足利義輝より一字を賜って改名)に和を請うてきた。これにより長年争ってきた北条氏と越相同盟を結ぶことになる。1570年、氏康の七男(異説あり)三郎を養子として迎えると、これを大いに気に入り、自らの初名である「景虎」を名乗らせた。また、同年、「不識庵謙信」と称している。

一方、1568年から本格的に越中攻めを開始、1576年には越中、翌年には能登を制圧し、加賀まで進んで手取川の夜戦で柴田勝家らの織田軍を一蹴する。十二月に帰国し、翌年三月には関東に出陣すべく準備を進めるが、三月九日、「不慮之虫気」のために厠で倒れ、十三日に、二人の養子、景勝と景虎のどちらを家督とするか定めぬまま死去。倒れたまま口もきけなかったとすれば脳卒中、昏睡状態だったとすれば脳溢血と思われる。かつては脳卒中とされていたが、最近は脳溢血とするものが多い。いずれにしろ、好きだった酒が命を縮めたことは疑いない。

口がきける状態ではなかったが、辞世とされているのが次の詩である(諸書で異同がある)

一期の栄は一盃の酒
四十九年は一酔の間
生を知らず死また知らず
歳月またこれ夢中の如し

他に伝わる辞世として、以下の歌がある。

極楽も地獄も先は有明の月ぞ心に掛る雲なき

またドラマや映画などでも引かれているが、春日山城の壁書も知られている。一部を掲げる。

運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌(たなごころ、手のひら)にして合戦すべし。疵(きず)つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり(略)

享年は信長と同じ四十九歳。
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