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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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魁皇の1000勝には感動した!
横綱白鵬は強いね。

優駿牝馬(オークス)のGⅠ史上初の1着同着も感動しました。
差されてまた差し返す(結果は同着)というのはひさしぶりに見ました。

■河越夜戦(1546年)

 北条氏の二代目氏綱は扇谷上杉氏の江戸城、河越(川越)城を攻略して関東南部へと勢力を拡げていた。後を継いだのが三代目の氏康である。
 一方、北条氏に圧迫されていた山内・扇谷の両上杉氏もようやく結束し、関東管領山内上杉憲政は各地の勢力を糾合して北条包囲網を築いた。甲斐の武田信玄、駿河の今川義元がこれに呼応し、北条領であった駿河東部をおびやかすとともに、憲政自身も扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏とともに出陣する。旧体制のオールスターとでも言うべき面々である。憲政の呼びかけにより集まった軍勢は八万とも言われ、元は扇谷上杉氏の居城であった武蔵河越城を包囲した。
 対する河越城の守将北条綱成はわずか三千の兵で城を守りつつ、氏康に救援を仰いだ。駿河で義元と対陣中であった氏康は駿河割譲を条件に義元、信玄と和睦。八千の兵を率いて河越城の救援に向かった。
 氏康は河越周辺に到着すると、偽りの降伏を申し出るなど和睦交渉を行い、日中に攻撃を受けても戦うことは避けた。夜間の奇襲にすべてをかけたのである。北条軍の態度に油断していた連合軍は夜襲で総崩れとなり、上杉朝定ほか多くの将兵が戦死、上杉憲政、足利晴氏はかろうじて戦場を脱出したが、両家とも急速に衰退していく。
 この奇跡的な勝利により、北条氏は関東における優位を確立するが、敗れた上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったために、氏康と謙信が戦うことにもつながった。

 さて、河越夜戦は「日本三大夜戦」の一つとされるが、他の二つが明確でない。厳島の戦い、桶狭間の戦いを挙げる人もいるが、厳島の戦い(早朝)、桶狭間の戦い(昼過ぎ)とも夜戦ではない。また「日本三大奇襲」という言い方もあるようだが、桶狭間の戦いは奇襲ではなく(迂回奇襲でも正面奇襲でもない)、正面攻撃が正しいから、これも適切でない。太平洋戦争の日本軍もよく夜襲をしたが、夜間戦闘は敵味方の区別が難しいなど、兵の統制が困難であるため、行われることは少ない。
 
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