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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」2011

■上杉謙信1

024 上杉謙信
 【うえすぎけんしん】 1530-78

従五位下弾正少弼、関東管領、不識院(不識庵)大僧都。

戦国最強と謳われた「越後の龍」。もと長尾氏だが上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉を名乗った。「毘」の軍旗を翻して戦場を疾駆する姿は、軍神の如しと畏れられた。義心が篤く、領土欲を持たないため、版図拡大の兵は起こさなかったというが、これは事実ではない。

少しさかのぼって、謙信の幼時の話から筆を起こしたい。

彼が生まれたのは1530年、虎千代と名付けられた。すでに兄晴景と姉(仙桃院)がおり、長尾家の後継は晴景と決まっていた。虎千代は七歳になると、父の命により林泉寺に出される。母である虎御前(青岩院)が信仰心に篤く、虎千代もその影響を受けていた。師は天室光育(てんしつこういく)で、僧としての学問だけでなく、軍学も教えていた。そのやり方は城の模型を使っての実戦形式で、虎千代も軍学にのめりこんでしまったという。

しばらくして父為景が亡くなるが、越後国内は守護上杉定実の養子問題のため内乱状態にあった。いつ敵方が攻めてくるかわからず、虎千代も甲冑を着けて葬儀に臨んだ。兄晴景は父を継いで越後を統べる力を持たなかったため、1543年、虎千代を呼び戻す。還俗し、長尾景虎と名乗ると、晴景の命により古志郡司として中越地方の反乱鎮圧に向かう。三条城、ついで栃尾城に入った景虎は、翌年、栃尾城に攻め寄せてきた反乱軍に勝利。初陣を飾った。

1545年には守護上杉氏の家臣である黒田秀忠が長尾氏に背くが、景虎はこれを討った。これ以降、武勇に優れる景虎は越後の国人たちの期待を集め、景虎を守護代に推して、晴景の隠居を迫る動きが出てくるようになる。晴景側には上田長尾氏の長尾政景らがつき、両者は一触即発となるが、守護である上杉定実が調停に入る。1548年、晴景は景虎を養子とする形で家督を譲り隠居、景虎は春日山城に入り守護代となる。いまだ十九歳である。

1550年には越後守護の上杉定実が子のないまま死去、守護職は空白となるが、景虎は将軍義輝から「国主」待遇を許される。名目的には越後の頂点に立ったが、それで国内がまとまるほど甘くはなかった。姉の嫁ぎ先である長尾政景が景虎の家督相続に不満を持ち反乱を起こしたのである。反乱の翌年、景虎は政景のこもる坂戸城を包囲して政景を降伏させ、越後の統一に成功する。



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法体でもないのに白頭巾姿とはこれいかに・・・。

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