兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
越後「国主」長尾景虎を生んだ調停者
023 上杉定実 【うえすぎさだざね】 1478?-1550 (後編)
越後守護であった上杉房能を除き、養嗣子であった定実を守護に立てた守護代長尾為景だったが、房能の実兄であり関東管領の上杉顕定が越後に攻め入ると、府中を放棄し、定実とともに越中、さらに佐渡へと逃れる。1510年、二人は蒲原津(新潟市)から上陸すると反管領派とも連携し、長森原の戦いで顕定を敗死させることに成功する。
しかし、為景と定実の蜜月は長くは続かなかった。三年後には守護派と守護代派が争いを始め、為景はみずからが擁立した守護定実との戦いを余儀なくされる。定実を幽閉し、守護派を退けた為景は越後の実権を掌握する。 為景は中央との外交にも力を入れ、幕府への献金を行い、将軍足利義晴からは、白笠袋・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・塗輿の使用を許されている。これは本来であれば守護に許される特権である。また、嫡男に義晴から一字を賜り、「晴景」と名乗らせている。将軍の偏諱を受けるのも、守護か幕府直臣並みの待遇である。
かろうじて「守護」であった定実だが、1533年には実家である上条上杉氏の定憲が為景に反抗して兵を挙げる。1536年の三分一原の戦いで定憲方に勝利した為景だったが、定憲方には越後国内では上田長尾氏(のちに長尾政景が出る)や国人である揚北衆が味方しており、国外でも蘆名氏、伊達氏と結んでいた。軍事的な局面打開に限界を感じた為景は定実の調停もあり、家督を晴景に譲って隠居することを決断する。
さて、定実には子がなかったことから、越後上杉家の家名を継がせるために養子を迎えることとしたが、白羽の矢が立ったのが、縁戚である伊達稙宗(政宗の曽祖父)の子時宗丸(のちの伊達実元)である。しかし、これには越後国内の揚北衆の反対があった。伊達家中でも稙宗に反対する子の晴宗が稙宗を幽閉しようとしたことから内乱状態になり、奥羽を巻き込んで天文の乱(洞(うつろ)の乱ともいう)に発展した。
定実は中条藤資らとともに、時宗丸の入嗣に反対する長尾晴景や揚北衆と戦うも敗れ、入嗣案は失敗に終わる。しかし越後の内乱状態は続き、守護代晴景から派遣されて栃尾城に入った弟の景虎が黒田秀忠の反乱を鎮めると、国人の一部が景虎の擁立を図って、晴景派と対立するに至った。ここで再び定実は調停に乗り出し、晴景が景虎を養子として隠居することで事態の収拾を図った。1548年、景虎は十九歳で越後守護代となる。
養子を得られなかった定実は二年後に死去し、越後上杉家は断絶、以後、越後に守護は置かれなかった。景虎は将軍義輝から「国主」待遇を許されるが、これに反対する長尾政景が反乱を起こす。景虎の戦いは続く。
越後「国主」長尾景虎を生んだ調停者
023 上杉定実 【うえすぎさだざね】 1478?-1550 (後編)
越後守護であった上杉房能を除き、養嗣子であった定実を守護に立てた守護代長尾為景だったが、房能の実兄であり関東管領の上杉顕定が越後に攻め入ると、府中を放棄し、定実とともに越中、さらに佐渡へと逃れる。1510年、二人は蒲原津(新潟市)から上陸すると反管領派とも連携し、長森原の戦いで顕定を敗死させることに成功する。
しかし、為景と定実の蜜月は長くは続かなかった。三年後には守護派と守護代派が争いを始め、為景はみずからが擁立した守護定実との戦いを余儀なくされる。定実を幽閉し、守護派を退けた為景は越後の実権を掌握する。 為景は中央との外交にも力を入れ、幕府への献金を行い、将軍足利義晴からは、白笠袋・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・塗輿の使用を許されている。これは本来であれば守護に許される特権である。また、嫡男に義晴から一字を賜り、「晴景」と名乗らせている。将軍の偏諱を受けるのも、守護か幕府直臣並みの待遇である。
かろうじて「守護」であった定実だが、1533年には実家である上条上杉氏の定憲が為景に反抗して兵を挙げる。1536年の三分一原の戦いで定憲方に勝利した為景だったが、定憲方には越後国内では上田長尾氏(のちに長尾政景が出る)や国人である揚北衆が味方しており、国外でも蘆名氏、伊達氏と結んでいた。軍事的な局面打開に限界を感じた為景は定実の調停もあり、家督を晴景に譲って隠居することを決断する。
さて、定実には子がなかったことから、越後上杉家の家名を継がせるために養子を迎えることとしたが、白羽の矢が立ったのが、縁戚である伊達稙宗(政宗の曽祖父)の子時宗丸(のちの伊達実元)である。しかし、これには越後国内の揚北衆の反対があった。伊達家中でも稙宗に反対する子の晴宗が稙宗を幽閉しようとしたことから内乱状態になり、奥羽を巻き込んで天文の乱(洞(うつろ)の乱ともいう)に発展した。
定実は中条藤資らとともに、時宗丸の入嗣に反対する長尾晴景や揚北衆と戦うも敗れ、入嗣案は失敗に終わる。しかし越後の内乱状態は続き、守護代晴景から派遣されて栃尾城に入った弟の景虎が黒田秀忠の反乱を鎮めると、国人の一部が景虎の擁立を図って、晴景派と対立するに至った。ここで再び定実は調停に乗り出し、晴景が景虎を養子として隠居することで事態の収拾を図った。1548年、景虎は十九歳で越後守護代となる。
養子を得られなかった定実は二年後に死去し、越後上杉家は断絶、以後、越後に守護は置かれなかった。景虎は将軍義輝から「国主」待遇を許されるが、これに反対する長尾政景が反乱を起こす。景虎の戦いは続く。
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