兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
005 北条綱成 【ほうじょうつなしげ】 1515-87
005 北条綱成 【ほうじょうつなしげ】 1515-87
勝千代、左衛門大夫。一般に父は今川家臣の福島(くしま)正成と言われる。正成は今川氏輝の死後、義元の異母兄玄広恵探を擁立して梅岳承芳(義元)と家督を争ったが敗れ、甲斐に逃れたが武田信虎に殺されたとされる。その後、綱成は北条氏綱のもとに身を寄せて北条姓を与えられたというが、異説もある。
ともかく、氏綱は綱成を気に入り、娘を嫁がせるとともに、北条姓を与える。「綱成」の名も氏綱の「綱」と正成の「成」を取って合わせたものである。綱成は氏綱の子為昌の後見役となり、為昌の死後は相模玉縄城主を継いだ。
河越夜戦では半年にわたる籠城戦を耐え抜いて北条氏に勝利をもたらす。
武勇目覚ましく、黄色い布に八幡大菩薩と書いた旗をひるがえして戦う姿から、「地黄八幡」と称えられる。のち第一線からは退き、氏康の名代として外交に活躍する。
1571年、綱成の守る駿河深沢城を信玄が攻撃、綱成は開城して退却したが、あとには「地黄八幡」の旗が残されていた。信玄は旗を見ると「旗を捨てたのは旗持ちの責任であるから、綱成を笑ってはならぬ」と言い、真田幸隆の子信綱(昌幸の兄)に「綱成の武勇にあやかれ」とその旗を与えたという。
同年、氏康が死去すると、綱成も出家して上総入道道感と名乗り、家督を子の氏繁に譲って隠居した。
1571年、綱成の守る駿河深沢城を信玄が攻撃、綱成は開城して退却したが、あとには「地黄八幡」の旗が残されていた。信玄は旗を見ると「旗を捨てたのは旗持ちの責任であるから、綱成を笑ってはならぬ」と言い、真田幸隆の子信綱(昌幸の兄)に「綱成の武勇にあやかれ」とその旗を与えたという。
同年、氏康が死去すると、綱成も出家して上総入道道感と名乗り、家督を子の氏繁に譲って隠居した。
氏繁は父に先立って死去し、氏繁の二男氏勝が家督を継ぐ。氏勝は秀吉の小田原攻めで伊豆山中城を守るが落城、玉縄城に退くが降伏した。のち家康に従い下総岩富で一万石を与えられる。子孫は無嗣により断絶。
「信長の野望・戦国群雄伝」では軍師も務められる良将という感じだったが、シリーズを経るにつれて次第に戦争向きの能力評価になった。
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たしかに、老人の黄色を帯びた白髪のことを「黄髪」とは言いますが、まだ若そうw
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