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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

上杉家の血を引く最後の越後守護

023 上杉定実 【うえすぎさだざね】 1478?-1550 (前編)

年表のような文章を連ねるのも退屈なので、所与の情報からできうるかぎり想像の翼を広げてみたい。

長尾為景(くどいようだが上杉謙信の父)の話をしているが、生年の比定をした。一説に1471年とするものもあるが、為景の父能景が1459年の生まれとされているので、能景十三歳のときの子ということになってしまう。また、これだと謙信が生まれた(1530年)のは、為景六十歳となり謙信は晩年の子となる。謙信の兄の長尾晴景が1509年生まれとされていることからすると、もともとこの兄弟は年が離れているのだが(間に謙信の姉である仙桃院がいる)

為景の生年を1489年(あるいは1488年)とすると、為景は能景が三十一歳のときの子で、晴景は為景が二十一歳、謙信は為景が四十二歳のときの子となって、この方が三代の年齢に違和感が少ない。

さて、後者の説を取ると、越後守護の上杉房能を自害させて上杉定実を擁立したのは弱冠二十歳の頃ということになる。すると、今度はこの年で越後の実権を握ろうとしたというのは若すぎるのではないかという疑問が生ずる。

一つの可能性としては、為景の定実擁立は受け身のものだったのではないかということである。房能の側から前年に長尾家の家督を継いだばかりの為景を除こうとする動きがあり、これに抗した為景が房能を破ったとすれば理解できる。房能は戦いに敗れると自害したため、結果としてすでに房能の養嗣子であった定実を立てたということである。

そうなると、房能は為景を除くのに定実をともなわなかったのだから、この養嗣子との間には距離があったのかもしれない。新守護定実と為景は馬が合ったのか、このあとしばらく行動をともにする。
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