兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■長尾氏
のちに長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉氏の家名を継いだために藤原氏となったが、もとの長尾氏は桓武平氏の流れを組み、坂東八平氏の一つである。鎌倉時代の末期に上杉氏(足利尊氏・直義兄弟の母方の実家)に従い、上杉氏の家宰・守護代として、一族は上野・越後などに分かれた。嫡流の長尾景忠の子孫は上野白井・上野総社・鎌倉(足利)の各長尾氏に分かれ、景忠の弟(一族ともいう)景恒の子孫から上田長尾、古志長尾、三条長尾の越後長尾氏が分かれた。
景為-景恒-高景-景房-頼景-重景-能景-為景-晴景=景虎(謙信)
022 長尾為景 【ながおためかげ】 1471?-1536?(生没年には異説あり)
生年には1489年の異説もある。父能景が1459年生まれとされているので、1471年を生年とすると、能景十三歳のときの子ということになる。没年も、長男晴景に家督を譲った1536年以降も生存していたという説があり、1537年、1542年とするものもある。これに限らず、上杉家の史家は怠慢か。
六郎、弾正左衛門尉、信濃守。上杉謙信の父で、越後守護代を務める。
「百戦錬磨の猛将」という表現は当を得ていよう。1506年、父能景が越中に出陣し一向一揆と戦うが般若野の戦いで戦死すると家督を継いだ。1507年、越後守護上杉房能と対立すると、その養子定実を擁立して房能を滅ぼす。しかし、房能の実兄である関東管領山内顕定が越後に出兵してくると、為景は敗れて一時佐渡(あるいは越中)に逃れた。その後再起し、1510年に長森原の戦いで顕定を敗死させ、越後の実権を掌握した。とはいえ、国内外に反対派は多く、越後国内では国人領主との戦いを繰り返し、越中・加賀にも遠征した。特に上杉(上条)定憲とはたびたび争った。武威だけでなく、朝廷や幕府にも使者を送るなど外交面にも配慮し、越後の統一を目指したが、国人の反乱が続くさなかに死去した。一説に越中栴檀野の戦いに敗死したともいうが父との混同か。
誇張かもしれないが百余度も戦ったという数は尋常でない。活動期間を四十年としても年平均で二回以上、それも死ぬまでである。
以前別のところに書いた本多忠勝は家康のほとんどの戦いに参加しているが、桶狭間の戦い直前の大高城兵糧入れが初陣で、最後が関ヶ原の戦いなので、四十年間で五十七戦である。途中、秀吉の天下統一があるから、十年除いたとして三十年でこの数なので、やはり年二回平均なのだが、この人は関ヶ原の前後、十年ずつ戦争しない期間があった。死ぬまで戦場に出ていたわけではない。
信長で六十戦ほど。細かいものを数えるともっと多いだろう。約二十五年でこの数なので、信長は多い方か。天下統一のために、常備軍を創って農繁期も農閑期も戦争していたためだろう。信長が参加していない織田軍全体の戦いはさらに多い。ちなみに三国志の曹操は三十五年で約七十戦。この人も死ぬ前年まで戦っていた。
信長、謙信、信玄とも、父親が国内や家中統一のために生涯戦い続けた武将であった。父の奮闘に子の活躍の礎がある。

Copyright © 2010, 2011 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
シークレットカード。上杉謙信の父であるが、その養子である景勝の外祖父(母方の祖父)でもある。
■長尾氏
のちに長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉氏の家名を継いだために藤原氏となったが、もとの長尾氏は桓武平氏の流れを組み、坂東八平氏の一つである。鎌倉時代の末期に上杉氏(足利尊氏・直義兄弟の母方の実家)に従い、上杉氏の家宰・守護代として、一族は上野・越後などに分かれた。嫡流の長尾景忠の子孫は上野白井・上野総社・鎌倉(足利)の各長尾氏に分かれ、景忠の弟(一族ともいう)景恒の子孫から上田長尾、古志長尾、三条長尾の越後長尾氏が分かれた。
景為-景恒-高景-景房-頼景-重景-能景-為景-晴景=景虎(謙信)
022 長尾為景 【ながおためかげ】 1471?-1536?(生没年には異説あり)
生年には1489年の異説もある。父能景が1459年生まれとされているので、1471年を生年とすると、能景十三歳のときの子ということになる。没年も、長男晴景に家督を譲った1536年以降も生存していたという説があり、1537年、1542年とするものもある。これに限らず、上杉家の史家は怠慢か。
六郎、弾正左衛門尉、信濃守。上杉謙信の父で、越後守護代を務める。
「百戦錬磨の猛将」という表現は当を得ていよう。1506年、父能景が越中に出陣し一向一揆と戦うが般若野の戦いで戦死すると家督を継いだ。1507年、越後守護上杉房能と対立すると、その養子定実を擁立して房能を滅ぼす。しかし、房能の実兄である関東管領山内顕定が越後に出兵してくると、為景は敗れて一時佐渡(あるいは越中)に逃れた。その後再起し、1510年に長森原の戦いで顕定を敗死させ、越後の実権を掌握した。とはいえ、国内外に反対派は多く、越後国内では国人領主との戦いを繰り返し、越中・加賀にも遠征した。特に上杉(上条)定憲とはたびたび争った。武威だけでなく、朝廷や幕府にも使者を送るなど外交面にも配慮し、越後の統一を目指したが、国人の反乱が続くさなかに死去した。一説に越中栴檀野の戦いに敗死したともいうが父との混同か。
誇張かもしれないが百余度も戦ったという数は尋常でない。活動期間を四十年としても年平均で二回以上、それも死ぬまでである。
以前別のところに書いた本多忠勝は家康のほとんどの戦いに参加しているが、桶狭間の戦い直前の大高城兵糧入れが初陣で、最後が関ヶ原の戦いなので、四十年間で五十七戦である。途中、秀吉の天下統一があるから、十年除いたとして三十年でこの数なので、やはり年二回平均なのだが、この人は関ヶ原の前後、十年ずつ戦争しない期間があった。死ぬまで戦場に出ていたわけではない。
信長で六十戦ほど。細かいものを数えるともっと多いだろう。約二十五年でこの数なので、信長は多い方か。天下統一のために、常備軍を創って農繁期も農閑期も戦争していたためだろう。信長が参加していない織田軍全体の戦いはさらに多い。ちなみに三国志の曹操は三十五年で約七十戦。この人も死ぬ前年まで戦っていた。
信長、謙信、信玄とも、父親が国内や家中統一のために生涯戦い続けた武将であった。父の奮闘に子の活躍の礎がある。
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シークレットカード。上杉謙信の父であるが、その養子である景勝の外祖父(母方の祖父)でもある。
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