兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
武田家には二十四将を初めとする武将がいますが、上杉家にも多くの優秀な武将がいます、ということで始めた上杉家臣編も今回が最終回。
■安田氏1 この安田氏は越後国北蒲原郡安田邑(白河荘安田条)より起こる。桓武平氏の一族で、平安時代から鎌倉時代に越後で栄えた城氏の流れを組むという。子孫は米沢藩に仕える。
城資永(資長)-(中略)-入道師顕-有時-有信-(中略)-有清-長秀=堅親
安田長秀 【やすだながひで】 1516?-82?
治部少輔。北蒲原郡白河荘安田城主。揚北衆だが謙信には早くから従い、側近となる。川中島の戦いでは、「血染めの感状」を受けたとされる。謙信の死後は景勝に属した。安田上総介順易と混同されるが別人。河田長親の三男に娘が嫁ぎ、安田家の家督を継いで堅親(筑前守)と名乗る。
■安田氏2 越後国刈羽郡鵜川荘安田条より起こる。大江広元の子孫でもとは毛利氏。北条(きたじょう)氏とは同族になる。憲朝までの系譜には異説もある。
毛利経高-安田(毛利)朝広(のち憲朝)-通元-重広-清広-広春-景元-顕元=能元(順易。顕元の弟)
安田景元 【やすだかげもと】 ?-?
越中守。為景、謙信に仕える。1534年、越後納下で上杉定憲を破って為景から感状を与えられる。1554年、同族の北条高広が謙信に背くと、これを直江実綱に報せ、高広攻めに加わった。
安田顕元 【やすだあきもと】 1538-80
惣八郎、掃部助。刈羽郡安田城主。越中守景元の子。御館の乱では景勝に味方し、新発田重家を景勝方に取り込むなど勝利に貢献するが、戦後、恩賞問題のこじれから自害。
安田能元 【やすだよしもと】 1557-1622
順易。弥九郎、上総介。謙信・景勝に仕える。兄の後を継ぎ、刈羽郡安田城主。会津三奉行の一人。家康の会津攻めでは、景勝に先鋒を命じられ、大坂冬の陣の鴫野口の戦いでは第二陣を務めた。
山吉豊守 【やまよしとよもり】 1541-77
豊盛とも。孫次郎。三条城主。謙信の側近で北条氏との折衝を担当。謙信が越中に出兵したときは春日山城の留守役を務める。1575年には家老筆頭。
吉江景資 【よしえかげすけ】 1527-82
与橘、織部助。越後の国人。西蒲原郡吉江村の領主。宗信(木工助)の子。謙信の死後は景勝に属し、越中魚津城で父宗信、子中条景泰らとともに織田軍に敗死。
以上です。
ところどころに意見を加えましたが、基本的には本当の人物紹介という形であまり自説は述べませんでした。欲求不満ですw
このあとは謙信を初めとする上杉一族を書いてみる予定ですが、景勝と直江兼続は前の場所で一度やっているのであらためて書くかは微妙なところです。紹介していない逸話もありますし、兼続はどれだけこきおろしてもまだ足りないという感がありますがw
少し脇道にそれますが、中条藤資の鳥坂(とっさか)城といえば、板額御前(巴御前と並び称される武勇の女性)ですし、上杉家の財政を担った大熊政秀・朝秀(長秀)親子も書いていません。謙信と信玄の話も書きたいですし、まだまだ書き足りないですね。
武田家には二十四将を初めとする武将がいますが、上杉家にも多くの優秀な武将がいます、ということで始めた上杉家臣編も今回が最終回。
■安田氏1 この安田氏は越後国北蒲原郡安田邑(白河荘安田条)より起こる。桓武平氏の一族で、平安時代から鎌倉時代に越後で栄えた城氏の流れを組むという。子孫は米沢藩に仕える。
城資永(資長)-(中略)-入道師顕-有時-有信-(中略)-有清-長秀=堅親
安田長秀 【やすだながひで】 1516?-82?
治部少輔。北蒲原郡白河荘安田城主。揚北衆だが謙信には早くから従い、側近となる。川中島の戦いでは、「血染めの感状」を受けたとされる。謙信の死後は景勝に属した。安田上総介順易と混同されるが別人。河田長親の三男に娘が嫁ぎ、安田家の家督を継いで堅親(筑前守)と名乗る。
■安田氏2 越後国刈羽郡鵜川荘安田条より起こる。大江広元の子孫でもとは毛利氏。北条(きたじょう)氏とは同族になる。憲朝までの系譜には異説もある。
毛利経高-安田(毛利)朝広(のち憲朝)-通元-重広-清広-広春-景元-顕元=能元(順易。顕元の弟)
安田景元 【やすだかげもと】 ?-?
越中守。為景、謙信に仕える。1534年、越後納下で上杉定憲を破って為景から感状を与えられる。1554年、同族の北条高広が謙信に背くと、これを直江実綱に報せ、高広攻めに加わった。
安田顕元 【やすだあきもと】 1538-80
惣八郎、掃部助。刈羽郡安田城主。越中守景元の子。御館の乱では景勝に味方し、新発田重家を景勝方に取り込むなど勝利に貢献するが、戦後、恩賞問題のこじれから自害。
安田能元 【やすだよしもと】 1557-1622
順易。弥九郎、上総介。謙信・景勝に仕える。兄の後を継ぎ、刈羽郡安田城主。会津三奉行の一人。家康の会津攻めでは、景勝に先鋒を命じられ、大坂冬の陣の鴫野口の戦いでは第二陣を務めた。
山吉豊守 【やまよしとよもり】 1541-77
豊盛とも。孫次郎。三条城主。謙信の側近で北条氏との折衝を担当。謙信が越中に出兵したときは春日山城の留守役を務める。1575年には家老筆頭。
吉江景資 【よしえかげすけ】 1527-82
与橘、織部助。越後の国人。西蒲原郡吉江村の領主。宗信(木工助)の子。謙信の死後は景勝に属し、越中魚津城で父宗信、子中条景泰らとともに織田軍に敗死。
以上です。
ところどころに意見を加えましたが、基本的には本当の人物紹介という形であまり自説は述べませんでした。欲求不満ですw
このあとは謙信を初めとする上杉一族を書いてみる予定ですが、景勝と直江兼続は前の場所で一度やっているのであらためて書くかは微妙なところです。紹介していない逸話もありますし、兼続はどれだけこきおろしてもまだ足りないという感がありますがw
少し脇道にそれますが、中条藤資の鳥坂(とっさか)城といえば、板額御前(巴御前と並び称される武勇の女性)ですし、上杉家の財政を担った大熊政秀・朝秀(長秀)親子も書いていません。謙信と信玄の話も書きたいですし、まだまだ書き足りないですね。
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