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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

藤田信吉 【ふじたのぶよし】 1559-1616

弥六郎、能登守。武田家旧臣。関東管領上杉氏に仕えた藤田氏の一族ともいうが不詳。武田家滅亡後は景勝に仕え、佐渡攻略などに活躍した。関ヶ原の戦いでは上杉・徳川家間の調停工作を行うが主戦派である直江兼続らの妨害により失敗、上杉家を出奔せざるをえなくなり、京の大徳寺で出家して源心と名乗った。のち家康に仕えて下野西方で一万五千石を与えられるが、大坂の陣において指揮に落ち度があったとの理由で改易された。翌年信濃奈良井で死去。自殺説もある。

■本庄氏 越後小泉庄本庄より起こり、一時小泉氏も称した。桓武平氏秩父氏の流れで色部氏と同族。

秩父季長-行長(弟為長は色部氏の祖)-長教-持長-有長-憲長-顕長-長員-房長-英長-通長-時長-房長-繁長-顕長=充長(顕長の弟、もと大宝寺義勝)

本庄繁長 【ほんじょうしげなが】 1539-1613

揚北衆で岩船郡本庄城主(村上城)。繁長が生まれる前に、父房長が弟の小川長資に城を乗っ取られて失意のうちに死んだ。繁長はわずか十三歳で、一族とともに長資を討って城を取り戻し、当主となっている。その後、謙信に仕えて川中島の戦いや関東攻略に参加し、戦功を立てた。1568年、武田信玄に内通したために謙信の攻撃を受け、敗北する。御館の乱では景勝を支持する。1591年、一揆煽動の嫌疑により、子の大宝寺義勝とともに大和に配流されたが、文禄の役に参陣して許され、上杉家に帰参した。景勝が会津に移封されるとこれに従う。関ヶ原の戦いでは福島城を守備して伊達軍と戦った。



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2013年3月の新武将。他の謙信家臣のように反復常無きように思えるが、息の長い活躍を見せる。

本庄実乃 【ほんじょうじつの】 1511?-75?

実仍で「さねより」か。慶秀とも。新左衛門尉、美作守。謙信の側近で、軍学の師という。早くから景虎(謙信)の器量を見抜き、1543年、景虎を居城栃尾城に迎える。揚北衆が謀叛を起こして栃尾城に攻めてきたとき、まだ十四歳であった謙信の初陣を援護し、勝利に大きく貢献した。その後、景虎は兄晴景に代わって長尾家の家督を継ぐ。以後も直江実綱(景綱)らとともに政権の中枢にあった。



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2013年3月の新武将。謙信擁立の功臣。老臣のイメージがあるが、謙信擁立時は四十歳前なのだなあ。

本庄秀綱 【ほんじょうひでつな】 ?-?

清七郎。美作守慶秀の子。古志郡栃尾城主。謙信の死後は景虎を推し景勝と戦う。景虎の死後も抵抗するが、1580年四月、栃尾城を捨てて逃走した。

村上国清 【むらかみくにきよ】 1546-1603?

義清の子。信玄に信濃を追われ、父とともに越後に逃れる。上杉家臣となり、のちに上杉氏の一門である山浦姓を名乗った。謙信に重用され、家康との交渉を担当する。御館の乱では居多浜で上杉景信を討ち取る。乱後、景勝から一字を拝領して景国と名乗る。1582年には海津城代となり、父の旧領を回復する。小田原攻めでは上杉家の先鋒として出陣する。
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