兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
大宝寺義勝 【だいほうじよしかつ】 1573-1623
本庄繁長の二男。出羽の大宝寺義氏は上杉氏らと結んで最上義光に対抗しようとしたが家臣に殺され、弟の義興も義光に敗死した。景勝は本庄繁長の二男千勝丸を出羽に送り込んで大宝寺氏の家名を継がせた。その後は秀吉に臣従するが、一揆煽動の疑いにより、大和に配流された。文禄の役で肥前名護屋に参陣したことから許されて、上杉氏に仕えた。
高梨政頼 【たかなしまさより】 1508?-76?
北信濃、中野(現中野市)の土豪。もと村上義清に属したが、義清の没落後は謙信を頼る。川中島の戦いで上杉軍の先鋒として奮戦するが、旧領回復は果たせなかった。 子の頼親の代に旧領を回復するが、上杉氏の会津移封に従ったと言われ、子孫は米沢藩士となった。
竹俣慶綱 【たけのまたよしつな】 1524-82
北蒲原郡竹俣城主。為綱の子。鎌倉時代に地頭として入部した佐々木加治(加地)氏の庶流で、新発田氏とは同族になる。川中島の戦いに参加したほか、本庄繁長が反乱したときに鎮定に加わるなど各地で戦っている。御館の乱では景勝を支持し、同族の新発田長敦(重家の兄)や斎藤朝信とともに武田勝頼との交渉に当たっている。その後は越中魚津城を守備するが、織田軍の攻撃により討ち死にした。子孫に上杉鷹山の藩政改革で活躍した竹俣当綱(まさつな)がいる。
千坂景親 【ちさかかげちか】 1536-1606
越後の国人。蒲原郡白河荘女堂鉢盛城主。御館の乱では景勝に属す。その後は信濃で徳川軍と戦う。米沢藩の初代江戸家老。『忠臣蔵』に登場する上杉家の江戸家老千坂兵部(高房)は景親の玄孫に当たる(ただし、実際に赤穂事件が起こった頃には死去している)
直江景綱 【なおえかげつな】 1509-77
神五郎、大和守。初名は実綱。三島郡与板城主。謙信の側近として内政・外交に活躍した。1560年、謙信が関東に出陣すると春日山の留守居役を務めた。また前関白の近衛前久(前嗣)が越後に下ってきた際には饗応役を務めた。のち謙信の旧名・景虎から「景」の一字を拝領し、景綱へと改名した。
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内政の高さを活かす場面はない・・・。
直江信綱 【なおえのぶつな】 ?-1581 生年は1560年くらいか
上野国総社の長尾景貞の子ともいうがはっきりしない。直江景綱の娘・船の婿となって直江家を継ぐ。御館の乱では景勝方に属すが、乱後に春日山城で不慮の死を遂げる。毛利奈左衛門秀広と山崎秀仙の恩賞を巡っての争いの巻き添えとなり毛利に殺されたという。その後、妻の船は景勝の命により側近の樋口与六と再婚し、樋口与六は直江兼続となった。某小説で上杉景虎とともに有名。
中条藤資 【なかじょうふじすけ】 ?-1568 生年1480頃
弾正左衛門尉、越前守。揚北衆の一人。三浦氏の一族である和田氏の流れを組む。弥三郎定資の子。北蒲原郡奥山荘鳥坂(とっさか)山城主。早くから長尾為景に従って、越後守護・上杉房能や関東管領との戦いに貢献した。一時上条定憲の乱に加わったこともあるが、為景に従っている。八十余歳で川中島の戦いに出陣し、感状を受けたとされる。
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2013年3月の新武将。老将フェチの人はこういうところを狙うのも一考かと。安定の能力。
中条景泰 【なかじょうかげやす】 1558-82
与次、越前守。吉江景資の嫡男で中条藤資の娘(孫娘か)を娶る。藤資の死後、謙信のはからいで中条家を継ぎ、北蒲原郡鳥坂山城主となる。謙信の死後は景勝に仕えるが、1582年、魚津城で柴田勝家に敗れて玉砕。遺児は幼少だったが特別に家督を認められ、子孫は米沢藩に仕えた。
「戦国人物紹介」
大宝寺義勝 【だいほうじよしかつ】 1573-1623
本庄繁長の二男。出羽の大宝寺義氏は上杉氏らと結んで最上義光に対抗しようとしたが家臣に殺され、弟の義興も義光に敗死した。景勝は本庄繁長の二男千勝丸を出羽に送り込んで大宝寺氏の家名を継がせた。その後は秀吉に臣従するが、一揆煽動の疑いにより、大和に配流された。文禄の役で肥前名護屋に参陣したことから許されて、上杉氏に仕えた。
高梨政頼 【たかなしまさより】 1508?-76?
北信濃、中野(現中野市)の土豪。もと村上義清に属したが、義清の没落後は謙信を頼る。川中島の戦いで上杉軍の先鋒として奮戦するが、旧領回復は果たせなかった。 子の頼親の代に旧領を回復するが、上杉氏の会津移封に従ったと言われ、子孫は米沢藩士となった。
竹俣慶綱 【たけのまたよしつな】 1524-82
北蒲原郡竹俣城主。為綱の子。鎌倉時代に地頭として入部した佐々木加治(加地)氏の庶流で、新発田氏とは同族になる。川中島の戦いに参加したほか、本庄繁長が反乱したときに鎮定に加わるなど各地で戦っている。御館の乱では景勝を支持し、同族の新発田長敦(重家の兄)や斎藤朝信とともに武田勝頼との交渉に当たっている。その後は越中魚津城を守備するが、織田軍の攻撃により討ち死にした。子孫に上杉鷹山の藩政改革で活躍した竹俣当綱(まさつな)がいる。
千坂景親 【ちさかかげちか】 1536-1606
越後の国人。蒲原郡白河荘女堂鉢盛城主。御館の乱では景勝に属す。その後は信濃で徳川軍と戦う。米沢藩の初代江戸家老。『忠臣蔵』に登場する上杉家の江戸家老千坂兵部(高房)は景親の玄孫に当たる(ただし、実際に赤穂事件が起こった頃には死去している)
直江景綱 【なおえかげつな】 1509-77
神五郎、大和守。初名は実綱。三島郡与板城主。謙信の側近として内政・外交に活躍した。1560年、謙信が関東に出陣すると春日山の留守居役を務めた。また前関白の近衛前久(前嗣)が越後に下ってきた際には饗応役を務めた。のち謙信の旧名・景虎から「景」の一字を拝領し、景綱へと改名した。
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内政の高さを活かす場面はない・・・。
直江信綱 【なおえのぶつな】 ?-1581 生年は1560年くらいか
上野国総社の長尾景貞の子ともいうがはっきりしない。直江景綱の娘・船の婿となって直江家を継ぐ。御館の乱では景勝方に属すが、乱後に春日山城で不慮の死を遂げる。毛利奈左衛門秀広と山崎秀仙の恩賞を巡っての争いの巻き添えとなり毛利に殺されたという。その後、妻の船は景勝の命により側近の樋口与六と再婚し、樋口与六は直江兼続となった。某小説で上杉景虎とともに有名。
中条藤資 【なかじょうふじすけ】 ?-1568 生年1480頃
弾正左衛門尉、越前守。揚北衆の一人。三浦氏の一族である和田氏の流れを組む。弥三郎定資の子。北蒲原郡奥山荘鳥坂(とっさか)山城主。早くから長尾為景に従って、越後守護・上杉房能や関東管領との戦いに貢献した。一時上条定憲の乱に加わったこともあるが、為景に従っている。八十余歳で川中島の戦いに出陣し、感状を受けたとされる。
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2013年3月の新武将。老将フェチの人はこういうところを狙うのも一考かと。安定の能力。
中条景泰 【なかじょうかげやす】 1558-82
与次、越前守。吉江景資の嫡男で中条藤資の娘(孫娘か)を娶る。藤資の死後、謙信のはからいで中条家を継ぎ、北蒲原郡鳥坂山城主となる。謙信の死後は景勝に仕えるが、1582年、魚津城で柴田勝家に敗れて玉砕。遺児は幼少だったが特別に家督を認められ、子孫は米沢藩に仕えた。
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