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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

新発田重家というと、反乱というよりも独立戦争といった感があって、のちに語るであろう九戸政実に似る。景勝、直江兼続の仕置の拙劣さが招いた乱である。

いい線までは行ったんだけど、ローカルな武将に留まっています。

021 新発田重家 【しばたしげいえ】 1546-87

新発田氏は揚北衆で佐々木氏の一族、加地氏の庶流である。新発田から新潟、三条にかけての下越(越後北部)に勢力を持った。

因幡守。新発田綱貞の子で初め五十公野(いじみの)氏の養子となって五十公野治長と名乗る。謙信時代の活躍ははっきりとしないが、関東出兵や川中島の戦いにも従軍したという。謙信の死後の御館の乱では安田顕元の誘いもあって景勝側に属し、内乱を景勝の勝利に導いた。

1580年、兄長敦が死去すると新発田氏を継いだ。重家は御館の乱での恩賞を期待したが、恩賞の多くは景勝に近い上田(長尾)衆に与えられ、重家は新発田氏の家督を許されたに過ぎず、恩賞に不満を持った。安田顕元が景勝との間を仲介するが奏功せず、責任を感じた顕元は自害した。

1581年、独立を決意し、中央の信長、東北の蘆名氏、伊達氏と通じる。1582年の本能寺の変で織田家の攻勢は去るが、その後も景勝と一進一退の攻防は続き、一時は越中の佐々成政らとも連携して景勝を追いつめる。しかし、1586年に景勝は上洛し秀吉に臣従。秀吉の後ろ盾を得た景勝は乱の鎮圧に全力を傾けることができる状況となった。翌年になって赤谷城、五十公野城が陥落、新発田城も包囲されて重家は孤立した。重家は打って出て戦死、一族は滅亡した。御館の乱後の上杉氏の勢力後退とも相まってだが、六年余にわたって抵抗し続けたことは評価されよう。

のち秀吉の配下で堀氏の与力である溝口秀勝が新発田城に入り、廃藩まで続いた。現在は「菖蒲城」の別名でも知られる。
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