兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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■関東三国志
いずれもが天下を取ってもおかしくない三人の英傑が互いに争った、戦国時代でももっとも人気の高い時期の一つである。
1541年、北条氏二代の氏綱が死去すると、氏康が後を継ぐ。
同年、甲斐でも武田信虎が追放され、晴信(のちの信玄)が家督を継いだ。
1548年、越後では長尾景虎が仏門から還俗して長尾家の当主となった。
こうして、相模の獅子、甲斐の虎、越後の龍、とも称される関東の三傑がそろう。三者は時に戦い、時に和しながら勢力を拡大していく。
004 北条氏康 【ほうじょううじやす】 1515-71
相模の獅子。「虎」の印判を使っていたから、「相模の虎」の方がいいのだろうけど、「虎」は甲斐にいるしね。ということで、獅子になったようです。
三代続いたが、次が育たなかったのが減点。トップが凡庸でも組織が続くように官僚機構を整えたのだが、秀吉にはかなわず。まあ、信玄も謙信も落とせなかった小田原城を落とした秀吉の方をほめるべきか。
新九郎、相模守、左京大夫。
1546年の河越夜戦で上杉朝定を破って扇谷上杉氏を滅ぼし、ついで山内上杉憲政を越後に追って上野(こうずけ、いまの群馬県)南部まで勢力を拡大。古河公方足利義氏を庇護して、旧勢力を関東からほぼ一掃するか支配下に置いた。
1554年には駿河へ進出し、駿河の今川義元、甲斐の武田晴信(信玄)と対峙するが、三者は太原雪斎のあっせんにより善徳寺で会見し、晴信の娘を氏康の子氏政に、氏康の娘を義元の子氏真に嫁がせることで講和した(先に、義元の娘が晴信の子義信に嫁いでいた)。これにより三国同盟が成立し、西方の脅威が取り除かれた。
1560年、長尾景虎が関東に出陣、十万余の大軍を率いて小田原城に迫った。しかし、氏康は一ヶ月半に及ぶ籠城戦を戦い抜き、景虎を撤退させる。景虎は帰途、鎌倉に入って鶴岡八幡宮前で関東管領の就任式を行った。
1568年、信玄が三国同盟を破って駿河に侵攻すると、敵対していた謙信と越相同盟を結んで信玄に対抗する。武田軍が小田原城下に攻め寄せるもこれを退け、逆に追撃戦を展開するが、これは信玄に見破られて成功せず(1569年、三増峠の戦い)
信玄とは敵対したまま、1571年に没するが、子の氏政には信玄と和睦するよう遺言し、氏政もそれに従った。
税制改革、使用通貨の統一、検地の実施、支城網の整備などを行い領内の支配を強化する。和歌にも優れた文武両道の名将である。
武田信玄と上杉謙信、両雄の攻撃を受けながら、巧みに直接対決を回避し、勢力を拡大していった真の戦巧者かもしれません。ただ、次がね。次が。
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謙信、信玄の攻勢をしのいだためか、防御が高い。
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