兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
謙信にそむく国人領主も多かった中で、斎藤朝信は忠臣というべきでしょうか。杉原(水原)常陸介、須田大炊助あたりはやや時代が下りますね。
斎藤朝信 【さいとうとものぶ】 1527?-1591? 六十余歳?
下野守。刈羽郡赤田城主。川中島の戦いや下野佐野城攻め、越中攻めなどで活躍し、「越後の鍾馗(しょうき)」の異名を取る。御館の乱では景勝側に属し、武田勝頼との和平交渉に当たった。内政にも手腕を発揮した。

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これだと鍾馗(中国では貧乏神を追い払う神)というイメージじゃないなあ。

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これはいい斎藤朝信。2013年3月の新武将。武勇に秀でた印象を受けるが内政・外交も巧みであった。
山本寺定長 【さんぼんじさだなが】 1519?-?
伊予守。頸城郡不動山城主。越後守護であった犬懸上杉氏の庶流という。1555年の川中島の戦い(第二回)に参加し戦功を挙げた。御館の乱では後見役を務めていた景虎を推して景勝と争い、敗れて逃走した。
山本寺景長 【さんぼんじかげなが】 ?-1582
定長の弟。御館の乱では兄と分かれて景勝側についた。1582年、越中魚津城が織田軍に攻められると守備に当たるが、救援も食糧もなく落城、切腹した。ちなみに本能寺の変の翌日であり、攻囲中の柴田勝家らはまだ変が起こったことを知らない。
新発田長敦 【しばたながあつ】 1538?-1580
尾張守。重家の兄。上条氏の乱では上条側の国人を長尾晴景(謙信の兄)側に帰参させる功があったというが、年代的には疑問が残る。謙信の死後は景勝に属して地位を保った。景勝と武田勝頼の和睦交渉に奔走するが、まもなく死去。新発田氏への恩賞が少なかったことから、弟重家が反乱を起こす。重家については別に取り上げる。
島津忠直 【しまづただなお】 ?-1604
淡路守。信濃の島津氏で薩摩の島津氏の同族。信濃長沼城主。信玄の信濃攻めにあい、信濃を離れて上杉氏に仕える。本能寺の変後は長沼城に復帰する。上杉氏の会津移封に従う。ゲームを上杉氏でプレイしていて、信濃を攻めたら「島津」を捕らえたと喜んだものの、能力を見てがっかり、というのは、関東の大名でプレイしていて、千葉氏を攻めたら「原胤貞」を捕らえて「鬼美濃」だと喜んだものの、原虎胤と勘違いしていてがっかり、というのと同じ。
上条政繁 【じょうじょうまさしげ】 1553-1625
畠山義続の次男で一説に名を義春ともするが、養子との混同か。謙信の養子となって越後守護上杉氏の流れを組む上条氏の家名を継ぐ。室は景勝の妹。上野・越中などを転戦した。1575年の軍役帳によれば、景勝・村上国清・上杉景信に次いで、一門衆の四位にあげられている。謙信の没後は景勝を助ける。1580年に剃髪して宜順(ぎじゅん)と名乗る。翌年からは海津城番となったが、景勝と信濃の領地を巡って対立し、1586年に出奔。関ヶ原の戦いでは家康に属して、本姓の畠山氏に復する。子孫は幕府の高家となった。
水原親憲 【すいばらちかのり】 1546-1616
姓は杉原とも。常陸介。川中島の戦い以来の上杉家臣。新発田重家の乱で戦死した揚北衆の水原満家の家名を継ぎ、北蒲原郡水原城主という。関ヶ原の戦いでは最上攻めからの撤退戦に参加。大坂冬の陣では鴫野の戦いで豊臣方を敗走させ、須田大炊助長義らとともに秀忠より感状を賜る。その際、親憲は賜った感状をその場で開いて文面を読み、また元のように包むと、傍らの本多正信に礼を述べて静かに退出したという。古来、賜った感状をその場で開くというのは無礼なことだが、文面が気に入らなければその場で返すつもりだったという。また、「子供の石合戦の如き戦で感状を頂戴するとは」と笑ったという話も伝わる。関ヶ原では敗れたが、戦国時代を生き抜いた武門の家柄である上杉家の矜持は失わなかった。
謙信にそむく国人領主も多かった中で、斎藤朝信は忠臣というべきでしょうか。杉原(水原)常陸介、須田大炊助あたりはやや時代が下りますね。
斎藤朝信 【さいとうとものぶ】 1527?-1591? 六十余歳?
下野守。刈羽郡赤田城主。川中島の戦いや下野佐野城攻め、越中攻めなどで活躍し、「越後の鍾馗(しょうき)」の異名を取る。御館の乱では景勝側に属し、武田勝頼との和平交渉に当たった。内政にも手腕を発揮した。
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これだと鍾馗(中国では貧乏神を追い払う神)というイメージじゃないなあ。
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これはいい斎藤朝信。2013年3月の新武将。武勇に秀でた印象を受けるが内政・外交も巧みであった。
山本寺定長 【さんぼんじさだなが】 1519?-?
伊予守。頸城郡不動山城主。越後守護であった犬懸上杉氏の庶流という。1555年の川中島の戦い(第二回)に参加し戦功を挙げた。御館の乱では後見役を務めていた景虎を推して景勝と争い、敗れて逃走した。
山本寺景長 【さんぼんじかげなが】 ?-1582
定長の弟。御館の乱では兄と分かれて景勝側についた。1582年、越中魚津城が織田軍に攻められると守備に当たるが、救援も食糧もなく落城、切腹した。ちなみに本能寺の変の翌日であり、攻囲中の柴田勝家らはまだ変が起こったことを知らない。
新発田長敦 【しばたながあつ】 1538?-1580
尾張守。重家の兄。上条氏の乱では上条側の国人を長尾晴景(謙信の兄)側に帰参させる功があったというが、年代的には疑問が残る。謙信の死後は景勝に属して地位を保った。景勝と武田勝頼の和睦交渉に奔走するが、まもなく死去。新発田氏への恩賞が少なかったことから、弟重家が反乱を起こす。重家については別に取り上げる。
島津忠直 【しまづただなお】 ?-1604
淡路守。信濃の島津氏で薩摩の島津氏の同族。信濃長沼城主。信玄の信濃攻めにあい、信濃を離れて上杉氏に仕える。本能寺の変後は長沼城に復帰する。上杉氏の会津移封に従う。ゲームを上杉氏でプレイしていて、信濃を攻めたら「島津」を捕らえたと喜んだものの、能力を見てがっかり、というのは、関東の大名でプレイしていて、千葉氏を攻めたら「原胤貞」を捕らえて「鬼美濃」だと喜んだものの、原虎胤と勘違いしていてがっかり、というのと同じ。
上条政繁 【じょうじょうまさしげ】 1553-1625
畠山義続の次男で一説に名を義春ともするが、養子との混同か。謙信の養子となって越後守護上杉氏の流れを組む上条氏の家名を継ぐ。室は景勝の妹。上野・越中などを転戦した。1575年の軍役帳によれば、景勝・村上国清・上杉景信に次いで、一門衆の四位にあげられている。謙信の没後は景勝を助ける。1580年に剃髪して宜順(ぎじゅん)と名乗る。翌年からは海津城番となったが、景勝と信濃の領地を巡って対立し、1586年に出奔。関ヶ原の戦いでは家康に属して、本姓の畠山氏に復する。子孫は幕府の高家となった。
水原親憲 【すいばらちかのり】 1546-1616
姓は杉原とも。常陸介。川中島の戦い以来の上杉家臣。新発田重家の乱で戦死した揚北衆の水原満家の家名を継ぎ、北蒲原郡水原城主という。関ヶ原の戦いでは最上攻めからの撤退戦に参加。大坂冬の陣では鴫野の戦いで豊臣方を敗走させ、須田大炊助長義らとともに秀忠より感状を賜る。その際、親憲は賜った感状をその場で開いて文面を読み、また元のように包むと、傍らの本多正信に礼を述べて静かに退出したという。古来、賜った感状をその場で開くというのは無礼なことだが、文面が気に入らなければその場で返すつもりだったという。また、「子供の石合戦の如き戦で感状を頂戴するとは」と笑ったという話も伝わる。関ヶ原では敗れたが、戦国時代を生き抜いた武門の家柄である上杉家の矜持は失わなかった。
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2013年5月の新武将。息の長い活躍。
須田満親 【すだみつちか】 1526-98
相模守。信濃高井郡の土豪。満国の子。一向一揆の指導者を務めたとも言われ、謙信・景勝に仕えると、河田長親の後の越中松倉城主として一向一揆を抑える役を果たす。その後は魚津城主として織田軍の佐々成政と戦う。1583年に信濃海津城主に転じる。真田昌幸が上杉氏に通じると、人質として昌幸の二男幸村(信繁)を預かり、徳川軍と戦った。
須田長義 【すだながよし】 1579-1615
大炊助。満親の子。景勝に仕え、上杉氏が会津に移封されると梁川城代を務めた。関ヶ原の戦いでは本庄繁長とともに福島口の守備を担当し、政宗の軍を破った。大坂の陣でも軍功を立て、徳川秀忠から感状を貰ったが、戦傷がもとでまもなく死去したという。
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