兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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明日は札幌出張で不在、水曜のNHK「歴史秘話ヒストリア」は上杉謙信ということで、上杉謙信のさわりだけ(まだまとめ切れていない)
家臣の掌握に苦労し、一時越後を出奔してしまったというのは前に書きましたが(これは一流の演出と考えた方がよい)、今回は内政について。
いまでこそ、越後は日本有数の米どころとして知られていますが、戦国時代の頃にはあまり米が取れない地でした。関ヶ原の頃で、越後の石高は五十万石ほど(謙信はこのほか上野や越中にも所領があった)。一方、信玄の甲斐・信濃は約七十万石。信長だと、尾張・美濃だけでも八十万石を超えます。米だけで考えると、この二人の所領は意外と多くないんですよね。動員兵力も限られてきます(米以外にも収入はあるが、結局は食べ物に左右される)
そこで、謙信が目を付けたのは商業なんですね。青苧(あおそ)と呼ばれる繊維の原料を越後の独占的な交易品として扱い、また直江津や新潟、柏崎などの港湾を抑え、日本海の交易によって巨利を得ました。死後には大量の金が遺されていたと言います。
さて、信玄が北上した目的の一つも海に出ることだったと考えられています。陸上交易や米といったものにとらわれがちですが、海上交易や米以外の物資の交易も大きなものなんですよね。
しかし、信玄の場合は謙信を越後から追うまでには至らず、また同盟していた今川義元が桶狭間で敗死したことによって、南の海を目指すことになります。信長が桶狭間で勝利したのみならず、義元を討ったということはこんなところでも影響しています。信玄が南の海を目指す過程で、嫡男の義信を失い、武田家の将来にも微妙な影を落とすことになったというのは以前書きました。
家臣の掌握に苦労し、一時越後を出奔してしまったというのは前に書きましたが(これは一流の演出と考えた方がよい)、今回は内政について。
いまでこそ、越後は日本有数の米どころとして知られていますが、戦国時代の頃にはあまり米が取れない地でした。関ヶ原の頃で、越後の石高は五十万石ほど(謙信はこのほか上野や越中にも所領があった)。一方、信玄の甲斐・信濃は約七十万石。信長だと、尾張・美濃だけでも八十万石を超えます。米だけで考えると、この二人の所領は意外と多くないんですよね。動員兵力も限られてきます(米以外にも収入はあるが、結局は食べ物に左右される)
そこで、謙信が目を付けたのは商業なんですね。青苧(あおそ)と呼ばれる繊維の原料を越後の独占的な交易品として扱い、また直江津や新潟、柏崎などの港湾を抑え、日本海の交易によって巨利を得ました。死後には大量の金が遺されていたと言います。
さて、信玄が北上した目的の一つも海に出ることだったと考えられています。陸上交易や米といったものにとらわれがちですが、海上交易や米以外の物資の交易も大きなものなんですよね。
しかし、信玄の場合は謙信を越後から追うまでには至らず、また同盟していた今川義元が桶狭間で敗死したことによって、南の海を目指すことになります。信長が桶狭間で勝利したのみならず、義元を討ったということはこんなところでも影響しています。信玄が南の海を目指す過程で、嫡男の義信を失い、武田家の将来にも微妙な影を落とすことになったというのは以前書きました。
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