兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
加地春綱 【かじはるつな】 ?-?
安芸守。蒲原郡加地荘の領主で揚北衆。近江源治佐々木氏を称する。1531年に上条定憲が揚北衆らに擁立されて、守護代長尾為景に背くと、春綱もこれに加わった。為景は娘(謙信の姉)を嫁がせることで春綱と和睦したという。のち謙信に仕え、1564年には信濃飯山城主となっている。子の秀綱は謙信に仕えたが、御館の乱では景虎側となり、景勝側に攻められて降伏。同族である新発田重家が景勝に対し反乱を起こすとこれに同調、居城を攻められて敗死した。
春日元忠 【かすがもとただ】 ?-1608
武田旧臣。のち景勝に仕えて直江兼続の側近。「直江被官の棟梁」と呼ばれるほど信頼された。関ヶ原の戦いでは最上氏の出羽長谷堂城を囲むが敗れる。
神余親綱 【かなまりちかつな】 1526?-80
小次郎。1577年、山吉豊守の死後、蒲原郡三条城主。御館の乱では景虎側。景虎の死後も抗戦を続けるが、山吉家の旧臣に殺された。
河田長親 【かわだながちか】 1540?-81
豊前守。近江守山の出身で、1559年、謙信が上洛した際にその才能を見込まれて越後に下向、奉行職として外交文書の発給などに当たる。また関東攻めや越中一向一揆との戦いでも活躍。1561年、謙信(長尾景虎)が上杉氏を称すと、一族の長尾景信(古志長尾氏)も上杉氏を称し、長親は古志長尾氏を継ぐが、長尾氏を名乗ることは辞退している。1569年から越中魚津城主として越中方面を統括する。謙信が死去すると出家して禅忠と号す。御館の乱では伯父の河田重親が景虎側につくが、長親は初め中立、のちに景勝を支持した。越中松倉城主として織田軍の攻撃を受ける。織田方からは本国近江の地を与えるとの条件で、度々誘いがあったが断って越中を守備、1581年に死去。その後も織田方の柴田勝家や佐々成政の攻撃が続き、越中は織田方が支配することになる。
■北条(きたじょう)氏(系図には諸説あり)
くどいようだが、「ほうじょう」ではなく、「きたじょう」である。毛利氏と同族で、その祖は源頼朝に招かれ、公文所(政所)の初代別当となった大江(中原)広元である。
大江広元-季光(相模毛利)-経光-基親(弟時親は安芸毛利氏の祖)-時元-経高-北条治良(晴良。兄弟の憲朝は安田氏の祖)-長広-延広-広栄-重広-広栄-輔広-広春-高広-景広
北条高広 【きたじょうたかひろ】 1517?-87?
丹後守、安芸守。刈羽郡佐橋荘北条城主(柏崎市)。剛勇だが粗忽な気性で、1554年には信玄に誘われて謙信に背くが、謙信の攻撃を受けると降伏。1563年には上野厩橋城主に任じられ、関東方面を任される。しかし、1567年、今度は北条氏康に誘われ再度謙信に背く。翌年上杉氏と北条氏の間で和平が成立(越相同盟)すると、上杉氏に復帰した。御館の乱では景虎側につくが、子の景広は殺され、高広は武田勝頼を頼った。のち帰参を許されるという。

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謙信に度々叛いた代表格のように言われるが、最近は評価を見直す動きもある。
北条景広 【きたじょうかげひろ】 1548-79
丹後守。高広の子。父とともに上野厩橋城にあって、謙信の関東統治を助けた。御館の乱では景虎側に属したために、景勝側の荻田主馬(孫十郎)に殺された。
黒川清実 【くろかわきよざね】 ?-?
四郎兵衛尉。蒲原郡奥山荘北条(黒川)城主。揚北衆の一人で、妻は同じ揚北衆である色部勝長の娘。1531年の上条氏の乱では長尾為景側に属すが、1535年の乱のときには上条氏に味方する。のち上杉氏に仕える。御館の乱では景虎側に属し、黒川氏と同族である中条氏と争い、のち景勝に帰参する。子の為実は景勝の会津移封に従う。
小島弥太郎 【こじまやたろう】 1522-82
名は貞興。謙信の少年時代からの側近。本姓は小島だが、強力無双であったために「鬼小島」と呼ばれ恐れられた。猛犬や暴れ猿退治など、数々の逸話が残る豪傑。

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能力、コスト的には剣豪に近いが、攻撃力が劣り、指揮兵数がやや高い。秘境要員かも・・・。
加地春綱 【かじはるつな】 ?-?
安芸守。蒲原郡加地荘の領主で揚北衆。近江源治佐々木氏を称する。1531年に上条定憲が揚北衆らに擁立されて、守護代長尾為景に背くと、春綱もこれに加わった。為景は娘(謙信の姉)を嫁がせることで春綱と和睦したという。のち謙信に仕え、1564年には信濃飯山城主となっている。子の秀綱は謙信に仕えたが、御館の乱では景虎側となり、景勝側に攻められて降伏。同族である新発田重家が景勝に対し反乱を起こすとこれに同調、居城を攻められて敗死した。
春日元忠 【かすがもとただ】 ?-1608
武田旧臣。のち景勝に仕えて直江兼続の側近。「直江被官の棟梁」と呼ばれるほど信頼された。関ヶ原の戦いでは最上氏の出羽長谷堂城を囲むが敗れる。
神余親綱 【かなまりちかつな】 1526?-80
小次郎。1577年、山吉豊守の死後、蒲原郡三条城主。御館の乱では景虎側。景虎の死後も抗戦を続けるが、山吉家の旧臣に殺された。
河田長親 【かわだながちか】 1540?-81
豊前守。近江守山の出身で、1559年、謙信が上洛した際にその才能を見込まれて越後に下向、奉行職として外交文書の発給などに当たる。また関東攻めや越中一向一揆との戦いでも活躍。1561年、謙信(長尾景虎)が上杉氏を称すと、一族の長尾景信(古志長尾氏)も上杉氏を称し、長親は古志長尾氏を継ぐが、長尾氏を名乗ることは辞退している。1569年から越中魚津城主として越中方面を統括する。謙信が死去すると出家して禅忠と号す。御館の乱では伯父の河田重親が景虎側につくが、長親は初め中立、のちに景勝を支持した。越中松倉城主として織田軍の攻撃を受ける。織田方からは本国近江の地を与えるとの条件で、度々誘いがあったが断って越中を守備、1581年に死去。その後も織田方の柴田勝家や佐々成政の攻撃が続き、越中は織田方が支配することになる。
■北条(きたじょう)氏(系図には諸説あり)
くどいようだが、「ほうじょう」ではなく、「きたじょう」である。毛利氏と同族で、その祖は源頼朝に招かれ、公文所(政所)の初代別当となった大江(中原)広元である。
大江広元-季光(相模毛利)-経光-基親(弟時親は安芸毛利氏の祖)-時元-経高-北条治良(晴良。兄弟の憲朝は安田氏の祖)-長広-延広-広栄-重広-広栄-輔広-広春-高広-景広
北条高広 【きたじょうたかひろ】 1517?-87?
丹後守、安芸守。刈羽郡佐橋荘北条城主(柏崎市)。剛勇だが粗忽な気性で、1554年には信玄に誘われて謙信に背くが、謙信の攻撃を受けると降伏。1563年には上野厩橋城主に任じられ、関東方面を任される。しかし、1567年、今度は北条氏康に誘われ再度謙信に背く。翌年上杉氏と北条氏の間で和平が成立(越相同盟)すると、上杉氏に復帰した。御館の乱では景虎側につくが、子の景広は殺され、高広は武田勝頼を頼った。のち帰参を許されるという。
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謙信に度々叛いた代表格のように言われるが、最近は評価を見直す動きもある。
北条景広 【きたじょうかげひろ】 1548-79
丹後守。高広の子。父とともに上野厩橋城にあって、謙信の関東統治を助けた。御館の乱では景虎側に属したために、景勝側の荻田主馬(孫十郎)に殺された。
黒川清実 【くろかわきよざね】 ?-?
四郎兵衛尉。蒲原郡奥山荘北条(黒川)城主。揚北衆の一人で、妻は同じ揚北衆である色部勝長の娘。1531年の上条氏の乱では長尾為景側に属すが、1535年の乱のときには上条氏に味方する。のち上杉氏に仕える。御館の乱では景虎側に属し、黒川氏と同族である中条氏と争い、のち景勝に帰参する。子の為実は景勝の会津移封に従う。
小島弥太郎 【こじまやたろう】 1522-82
名は貞興。謙信の少年時代からの側近。本姓は小島だが、強力無双であったために「鬼小島」と呼ばれ恐れられた。猛犬や暴れ猿退治など、数々の逸話が残る豪傑。
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能力、コスト的には剣豪に近いが、攻撃力が劣り、指揮兵数がやや高い。秘境要員かも・・・。
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