兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
人間の記憶というのは曖昧なもので、
平成7年(1995)の1月17日が何曜日だったのか記憶にありません。
※火曜日
20年前は学生だったのですが、
この日は三学期の始業式だったと思いますが、
それもあやしいかもしれません(北海道は三学期の始業式が遅い、
そのかわり、夏休みが短い…8月いっぱい夏休みだったりはしません)
ともかく、体育館で始業式が行われたのですが、
そこで「大阪の方で大きな地震があったみたい」、
「震度5か6くらい?」という会話を耳にしたように思います。
(当時は朝のテレビのニュースを見ていなかった)
それを聞いて、「ちょっと大きいけど大したことはない」と思ったことは覚えています。
(場所的に津波の被害も含めて)
これは、平成5年(1993)に釧路沖地震と北海道南西沖地震、
平成6年(1994)に北海道東方沖地震を経験していたためです。
特に北海道南西沖地震は、自分の経験の中ではもっとも大きい地震でした。
私が住んでいた北海道某所の震度は4だったと思いますが、
激しい縦揺れで机の上の本が全部手前に崩れてきたのを覚えています。
震度6(推定)だった奥尻島には親戚がいましたから、津波の怖さも知りました。
それに比べると、東日本大震災はゆっくりとした横揺れが3分くらい続いて、
船に乗っているような、変な感じの揺れだったことを記憶しています。
(ん、揺れている? 揺れている! いつ巨大な縦揺れが来るのか?
来ない・・・これが地震の揺れ?! と感じていました)
と思って、家に帰ってテレビを見たら、
炎と煙に包まれている神戸の上空からの映像を見て、
しばらく無気力になるほどの強い衝撃を受けたというのは前にも書いた通りです。
(当時は一般的に使われていなかったPTSDのようなもの)
東日本大震災の時も映像を見る時は注意していました。
1991年の、いわゆる「ソ連8月クーデター」以上の衝撃でした。
この時は学校の職員室に行ってテレビを見ていましたが、
歴史が動いていく瞬間を目の当たりにしたという感覚でした。
この前段階として、1989年のベルリンの壁崩壊があるわけですが、
それまではずっと「冷戦時代」でしたし、
過去の「歴史」の時代はともかく、自分が生きている時代に国家、国境が
変わるという認識自体が希薄でした。
平成7年(1995)の1月17日が何曜日だったのか記憶にありません。
※火曜日
20年前は学生だったのですが、
この日は三学期の始業式だったと思いますが、
それもあやしいかもしれません(北海道は三学期の始業式が遅い、
そのかわり、夏休みが短い…8月いっぱい夏休みだったりはしません)
ともかく、体育館で始業式が行われたのですが、
そこで「大阪の方で大きな地震があったみたい」、
「震度5か6くらい?」という会話を耳にしたように思います。
(当時は朝のテレビのニュースを見ていなかった)
それを聞いて、「ちょっと大きいけど大したことはない」と思ったことは覚えています。
(場所的に津波の被害も含めて)
これは、平成5年(1993)に釧路沖地震と北海道南西沖地震、
平成6年(1994)に北海道東方沖地震を経験していたためです。
特に北海道南西沖地震は、自分の経験の中ではもっとも大きい地震でした。
私が住んでいた北海道某所の震度は4だったと思いますが、
激しい縦揺れで机の上の本が全部手前に崩れてきたのを覚えています。
震度6(推定)だった奥尻島には親戚がいましたから、津波の怖さも知りました。
それに比べると、東日本大震災はゆっくりとした横揺れが3分くらい続いて、
船に乗っているような、変な感じの揺れだったことを記憶しています。
(ん、揺れている? 揺れている! いつ巨大な縦揺れが来るのか?
来ない・・・これが地震の揺れ?! と感じていました)
と思って、家に帰ってテレビを見たら、
炎と煙に包まれている神戸の上空からの映像を見て、
しばらく無気力になるほどの強い衝撃を受けたというのは前にも書いた通りです。
(当時は一般的に使われていなかったPTSDのようなもの)
東日本大震災の時も映像を見る時は注意していました。
1991年の、いわゆる「ソ連8月クーデター」以上の衝撃でした。
この時は学校の職員室に行ってテレビを見ていましたが、
歴史が動いていく瞬間を目の当たりにしたという感覚でした。
この前段階として、1989年のベルリンの壁崩壊があるわけですが、
それまではずっと「冷戦時代」でしたし、
過去の「歴史」の時代はともかく、自分が生きている時代に国家、国境が
変わるという認識自体が希薄でした。
PR
この記事にコメントする