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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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大沢啓二(親分)が亡くなったとなると、これでまた一人、長嶋茂雄(ミスター)を呼び捨てにできる人が減ったなあ、と思って、彼らの因縁を思い出すわけですが。

大沢という人は立教大学の出身で、長嶋の二年先輩に当たる(だから呼び捨てにできるわけだ)。このとき長嶋の同期だったのが杉浦忠(※1)と本屋敷錦吾で、長嶋を含めた彼ら三人はのちに「立教の三羽烏」と呼ばれることになる。

大沢は1956年に南海ホークス(※2)に入団、長嶋、杉浦を南海に入団させることを期待された。しかし、二年後南海に入団したのは杉浦だけで、長嶋は南海入りが決まっていたものの、最終的には巨人に入団した。

このあたりの経緯は長嶋の経歴に詳しいので、ここで詳しく触れないが、その後の大沢の長嶋に対する扱いというものには微妙な雰囲気が感じられて、このときの因縁を思ったものである。

※1 杉浦忠 日本プロ野球史上最高のサブマリン(下手投げ投手。杉浦の場合はサイドスローと言われることもある)。1959年の巨人相手の日本シリーズ、血豆を押しての四連投四連勝は不滅の大記録。2001年、66歳で死去。

※2 南海ホークス いまの福岡ソフトバンクホークスの前身(1947-88年)。リーグ制覇はするものの、日本シリーズでは巨人に敗れるということが続いたが、杉浦の四連投四連勝(4-0)で初の日本一。緑のユニフォームが子供心に印象的でした。私はこのチームについて語る知識も資格も持ちませんが、かつて関西に人気も強さも誇ったチームがありました。
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