兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
上杉家臣の特徴
揚北衆に代表される独立性の高い武将が多い。戦にはめっぽう強かった謙信も、武田信虎や信玄以上に家臣統率には悩んだようだ。
揚北衆 【あがきたしゅう】
鎌倉時代から戦国時代、越後北部に勢力を持った国人のこと。揚北とは阿賀野川の北の地域のこと。本庄、色部、加地、新発田、竹俣、安田、水原氏など。長尾為景、景虎(謙信)とたびたび争い、ようやく帰順したが、独立性は高く、長尾氏(上杉氏)とはもともと同格という意識を強く持っていたため、たびたび上杉氏に反抗している。
国人 【こくじん】
在地の有力武士のこと。平安時代の荘官、鎌倉・室町時代の地頭などが地方に土着して領主に成長したものが多い。国人から戦国大名になった例としては毛利元就が有名。
五十音順に行きます。
鰺坂長実 【あじさかながざね】 ?-?
1572年から越中新庄城を守り一向一揆と戦う。1577年九月、謙信は畠山氏の能登七尾城を落とすと、長実を七尾城代とした。しかし、謙信の死後は織田軍の攻勢を受け、1579年八月、織田軍と通じた畠山氏旧臣に七尾城を追われた。謙信が苦労して落とした七尾城の城代に任じられたのだから、それなりの人物なのだろうが、この前後の経歴がさっぱりわからない。福岡県に鰺坂という地名があるから、そこが発祥だろうか。
■甘粕(甘糟)氏 新田氏の一族である田中弾正大弼重氏の四男甘糟備中守広氏より出る(太田亮『姓氏家系大辞典』)。甘粕事件を起こした甘粕正彦(憲兵大尉)は景持の子孫という。
甘粕景持 【あまかすかげもち】 ?-1604
近江守。初名は長重。景時とも。1561年、第四次川中島の戦いでは小荷駄奉行。本隊撤退時に殿軍を務めて武田軍の追撃を退けた。1580年、御館の乱では景勝を支持。敵対した本庄秀綱が敗走すると、景勝から栃尾城主として配置される。1582年、三条城主に転じる。上杉家の会津移封にも従うなど、息の長い活躍を見せている。

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2013年3月の新武将。甘粕近江守と言えば、川中島の戦いで殿を務めたことで知られているが、
ゲームでは長らく冷遇された。次の甘粕景継と混同されることも多い。
甘粕景継 【あまかすかげつぐ】 1550?-1611
備後守。初名は清長。大力・勇猛で知られ、本庄繁長と武勇を並び称せられた。近江守景持(長重)の子とも、登坂清高の子で1577年、謙信の命で景持と別の甘粕氏を継ぐともいう。景勝から一字を賜り景継と名乗る。御館の乱後、新発田重家が反乱を起こすと、南蒲原郡護摩堂城主に配置された。のち出羽東禅寺(酒田市)の城代となり、1598年に上杉氏が会津に移封すると、陸奥白石城代となった。関ヶ原の戦いでは、軍議のため留守にしていた白石城(名代は登坂式部)を伊達軍に急襲されて奪われた。
鮎川清長 【あゆかわきよなが】 ?-?
摂津守。岩船郡大葉沢城主で揚北衆。鮎川氏は本庄氏の一族。1539年、本庄城の本庄房長(繁長の父)を攻め、房長を出羽に追った。のち同族の色部氏の調停により本庄氏と和解するが、本庄繁長が謙信に背くと、謙信に属して繁長と戦った。子の孫次郎盛長もたびたび本庄氏と争っている。
上杉家臣の特徴
揚北衆に代表される独立性の高い武将が多い。戦にはめっぽう強かった謙信も、武田信虎や信玄以上に家臣統率には悩んだようだ。
揚北衆 【あがきたしゅう】
鎌倉時代から戦国時代、越後北部に勢力を持った国人のこと。揚北とは阿賀野川の北の地域のこと。本庄、色部、加地、新発田、竹俣、安田、水原氏など。長尾為景、景虎(謙信)とたびたび争い、ようやく帰順したが、独立性は高く、長尾氏(上杉氏)とはもともと同格という意識を強く持っていたため、たびたび上杉氏に反抗している。
国人 【こくじん】
在地の有力武士のこと。平安時代の荘官、鎌倉・室町時代の地頭などが地方に土着して領主に成長したものが多い。国人から戦国大名になった例としては毛利元就が有名。
五十音順に行きます。
鰺坂長実 【あじさかながざね】 ?-?
1572年から越中新庄城を守り一向一揆と戦う。1577年九月、謙信は畠山氏の能登七尾城を落とすと、長実を七尾城代とした。しかし、謙信の死後は織田軍の攻勢を受け、1579年八月、織田軍と通じた畠山氏旧臣に七尾城を追われた。謙信が苦労して落とした七尾城の城代に任じられたのだから、それなりの人物なのだろうが、この前後の経歴がさっぱりわからない。福岡県に鰺坂という地名があるから、そこが発祥だろうか。
■甘粕(甘糟)氏 新田氏の一族である田中弾正大弼重氏の四男甘糟備中守広氏より出る(太田亮『姓氏家系大辞典』)。甘粕事件を起こした甘粕正彦(憲兵大尉)は景持の子孫という。
甘粕景持 【あまかすかげもち】 ?-1604
近江守。初名は長重。景時とも。1561年、第四次川中島の戦いでは小荷駄奉行。本隊撤退時に殿軍を務めて武田軍の追撃を退けた。1580年、御館の乱では景勝を支持。敵対した本庄秀綱が敗走すると、景勝から栃尾城主として配置される。1582年、三条城主に転じる。上杉家の会津移封にも従うなど、息の長い活躍を見せている。
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2013年3月の新武将。甘粕近江守と言えば、川中島の戦いで殿を務めたことで知られているが、
ゲームでは長らく冷遇された。次の甘粕景継と混同されることも多い。
甘粕景継 【あまかすかげつぐ】 1550?-1611
備後守。初名は清長。大力・勇猛で知られ、本庄繁長と武勇を並び称せられた。近江守景持(長重)の子とも、登坂清高の子で1577年、謙信の命で景持と別の甘粕氏を継ぐともいう。景勝から一字を賜り景継と名乗る。御館の乱後、新発田重家が反乱を起こすと、南蒲原郡護摩堂城主に配置された。のち出羽東禅寺(酒田市)の城代となり、1598年に上杉氏が会津に移封すると、陸奥白石城代となった。関ヶ原の戦いでは、軍議のため留守にしていた白石城(名代は登坂式部)を伊達軍に急襲されて奪われた。
鮎川清長 【あゆかわきよなが】 ?-?
摂津守。岩船郡大葉沢城主で揚北衆。鮎川氏は本庄氏の一族。1539年、本庄城の本庄房長(繁長の父)を攻め、房長を出羽に追った。のち同族の色部氏の調停により本庄氏と和解するが、本庄繁長が謙信に背くと、謙信に属して繁長と戦った。子の孫次郎盛長もたびたび本庄氏と争っている。
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