兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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■関東足利家(下)
気になるこの人 鴻巣御所 【こうのすごしょ】 1574-1620
足利氏姫(氏女)とも呼ばれるが、古河公方足利氏の通字である「氏」の名を付けて呼んでいるだけで、実名は不詳である。また鴻巣は住んだ場所の名前、御所は邸宅から転じた敬称である。
父義氏はすでに名目だけの古河公方であり、北条氏の庇護のもとにあった。1583年に義氏が死去すると、嫡男は早世していたため、家臣らにより古河城主とされる(正式に家督を継いだかは不明)
1590年、秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅ぶと、古河城は破却され、鴻巣(古河市)に移る。翌年、名家の断絶を惜しんだ秀吉の命により、かつて敵対していた小弓御所足利義明の孫足利(喜連川)国朝(1572-93)に嫁いだ。これにより両家は約七十年ぶりに統一されたことになる。国朝は下野喜連川三千五百石を与えられたが、氏姫は鴻巣に残った。
1593年、夫国朝は朝鮮出兵の途上、安芸で死去したため、今度は国朝の弟頼氏に嫁ぐ。1599年には二人の間に義親が生まれている。足利(喜連川)氏は関ヶ原の戦い以後も存続するが、氏姫は変わらず鴻巣御所に住み続けた。徳川幕府による喜連川藩成立を認めようとせず、子の義親も喜連川に行くことはなかった。
北条氏が滅んだときには17歳くらい。上臈(じょうろう、身分の高い女性)好きの秀吉なら手を出してもおかしくないと思うのだが、そういう話は聞かないどころか婿の世話までしている。
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