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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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■関東足利家(中)

この人がキーマン 足利成氏 【あしかがしげうじ】 1438-97

 鎌倉公方足利持氏の子。初代将軍尊氏の四男基氏を鎌倉公方の初代とすると五代目に当たる。父持氏は永享の乱で幕府と対立、幕府軍・上杉氏らに敗れて自害する(1439年)。結城氏朝らが持氏の遺児を擁して再び挙兵する(結城合戦、1440-41年)が敗れ、氏朝は自害、遺児も斬られるが、成氏は幸運にも生き延びる。京で嘉吉の乱が起こったためである。
 結城合戦の祝勝会として開かれた宴席で守護大名の赤松満祐が六代将軍義教を暗殺するという事件が起こったため、成氏は処刑をまぬがれる。なお、成氏の幼名や結城合戦前後の動向については不明な点もある。
 関東の諸勢力を中心に鎌倉府再興の動きが起こり、成氏は十二歳で鎌倉公方として迎えられるが、鎌倉府のもとには持氏派や反持氏派の上杉氏らが集まっていた。依然、対立が続いたのである。
 1454年に成氏は関東管領の山内上杉憲忠を謀殺するが、これが三十年間続く享徳の乱の始まりとされる。翌年には武蔵分倍河原の戦いで扇谷上杉顕房らを破る。
 幕府は上杉氏の支援を決め、朝廷から成氏追討の綸旨を受ける。成氏は朝敵となったのである。山内上杉氏は憲忠の弟房顕を立て、扇谷上杉氏も家宰太田資清(道灌の父)らが顕房を擁立して態勢の立て直しを図る。房顕は父の実家である越後上杉氏の、顕房は駿河守護今川範忠(義元の曽祖父)の援軍を仰ぐ。これらの圧迫を受けて、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河に移る。以後、これを古河公方と呼ぶ(1455年)
 成氏は結城一族や小山氏、宇都宮氏、小田氏などの豪族の支援を受けて戦いを継続。幕府の改元にも従わず、「享徳」の年号を使い続けた。
 1457年には将軍義政の弟政知が「公方」として下向するが、成氏の力が強く、鎌倉には入れず伊豆堀越に御所を置いた(堀越公方)。以後は古河公方側と堀越公方・上杉氏側が関東を二分して戦うことになる。
 幕府による古河公方側の切り崩し工作がある一方、上杉氏の足並みの乱れなどもあり、一進一退の攻防が続くが、1482年(1483年)になってようやく成氏と幕府の和議が成立して乱は終息する。三十年間戦い続けて、ようやく幕府に地位を認めさせたと言える。
 成氏のあとに北条早雲が登場して関東はそのまま戦国時代に突入することになる。

 基本的な構図として、鎌倉公方(成氏以降は古河公方)は幕府からの自立を目指す傾向にあったが、関東管領上杉氏は幕府に従う姿勢を見せたので、両者の間には絶えず緊張感があった。また、それぞれを支持する(あるいは擁立する)関東の諸勢力もあり、両者の対立は長引いたが、最終的には北条氏の登場により、退場を迫られる。代わって登場するのが越後の長尾景虎、上杉謙信である。
 
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