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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■武田勝頼2

家康側に寝返った奥平氏の長篠城を攻める武田軍、救援(後詰という)に赴く織田・徳川の連合軍、この両者の間に起きた戦いが長篠の戦いである。桶狭間の戦いや川中島の戦いも基本的には攻城軍対後詰軍の構図である。なお、当時は城と言っても石垣や天守閣を備えたものではなく、地形を利用した砦のようなものと考えていただきたい。

『甲陽軍鑑』では長篠の戦いで跡部勝資(大炊介、尾張守)、長坂光堅(長閑斎、釣閑斎)が主戦論を展開し、馬場、内藤、山県らの撤退論と対立したとされ、跡部、長坂を武田滅亡の奸臣としているが、この話自体確実ではない。長坂は戦場にいないという説もある(異説あり)。いずれにせよ、主戦論と撤退論が併存したまま戦いに臨むことはあり得ないし、実際は戦うことに軍議が決したのだから、主戦論者をどうこう言うのはおかしい。

勝頼が後方に送った書状にはこう書いてある。「信長・家康が後詰として出陣してきたが、敵は方策を失って一段とひっ迫している様子だから、敵陣へ攻め込んで、信長・家康を思い通りに討ち果たすことができよう」

信長と家康の後詰軍は長篠城の救援に来たはずだが、その手前で進軍を停止してしまった。勝頼は、後詰軍は臆していると判断したのであろう。あるいは、後詰軍はさらなる援軍を待っているのかもしれない。だとすれば、先に攻勢に出た方が有利である。武田軍は織田・徳川軍の前面へと布陣する。

しかし、ここで後詰軍の別働隊である酒井忠次らが長篠城を包囲している武田軍を奇襲、包囲軍は武田信実(信玄の弟)、三枝守友らを失い敗走する。包囲軍が敗れても後詰軍を破れば戦は勝ちである。武田軍は山県昌景や武田信廉らが次々と後詰軍の陣地へと突撃していく。ところが、後詰軍の強固な陣地の前にいずれも撃退され、兵力を消耗して、勝頼の旗本へ集まると敗走を始めた。さらに織田・徳川軍の追撃に遭い、武田方は山県、内藤、馬場ら多くの武将が討ち取られてしまう。

1941年12月、日本軍は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まったが、翌年6月のミッドウェー海戦で敗北、空母、航空機、パイロットを多数喪失する。しかし、終戦まではここから三年かかった。ミッドウェーでの敗戦は日本軍が敗退する転機となったが、日本降伏の直接の原因ではない。本土空襲と沖縄占領、原爆投下に至ってようやく日本は降伏を決めるのである。

長篠の戦いでの大敗から武田家滅亡まで七年ある。信長が慎重だったこともあるが、この敗戦が武田家の滅亡に直結したわけではない。次回は長篠後の武田家に何が起こったのかを見てみよう。
 
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