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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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武田家祭りの最終回はこの人。

「戦国人物紹介」

015 武田勝頼 【たけだかつより】 1546-82

諏訪四郎、信玄の四男。信玄の二男信親は生まれつき盲目であったため仏門に入り竜宝(竜芳)と号す。武田家滅亡時に自害するが、子孫が残り、大正になって武田家正統とされている。三男信之は早世したため、嫡男義信の死後は勝頼が後継者とされた。

信玄の代には戦国最強とも謳われた武田家だが、その武田家を滅ぼした人物として、評価は芳しくない。『甲陽軍鑑』の記述に基づく、信玄時代からの重臣たちとの対立は信憑性にやや疑問があるが、信虎、信玄と続く武田家の家臣統制の矛盾が勝頼の代で噴出したとも考えられる。

(従来的な見方)
信玄が殺した諏訪頼重の娘との子。敵の娘を側室とすることに家臣は反対したらしい。信玄の長男義信が対今川戦略をめぐって自刃させられると、事実上の後継者となったが、形式的にはあくまで子信勝が成人するまでの後見人に過ぎなかった。そのため、信玄がいるうちはともかく、その死後は家臣に軽んぜられたという。そもそも武田家(に限ったことではなかったが)の配下は在地性が強く、完全な家臣化には至らないところを信玄個人の力で束ねていたようなものである。しかも勝頼は信玄の死後、側近政治を行って権力を強化しようとはかったものだから、信玄時代の重臣たちとはうまくいかない。とはいえ、信玄の威光はまだ残っていたのか、長篠の戦いで重臣の多くが死んでも武田家は七年続いた。しかし、家康に攻められていた高天神城を見殺しにすると信用を失い、離反者が続出して武田家は滅んだ。真田や北条のもとに逃れても、在りし日のような武田家の復活はあり得なかったと言っていい。信玄の死の直後は信玄が落とせなかった高天神城を落とし東美濃の十八城を落とすなど、「強すぎる」勝頼は信玄以上に版図を広げたがそれを支えきれなかった。

(解説)
諏訪家を継いでいたため武田家の家督を継げず、子信勝の後見人(陣代)に過ぎなかったという説があるが、実際は信玄の死後、その死を秘匿し、信玄が隠居して勝頼が正式に家督を継いだという形を取っており、武田姓に復している。

信玄は遺言で、みずからの死を三年間秘し、国力を蓄えよ、と言ったというが、周囲の状況はそれを許さなかった。信玄の死はすぐに知れ渡り、信玄が死んだ1573年には足利義昭が京を追放され、朝倉・浅井氏が滅亡している。座していれば死を待つのみである。勝頼は積極的に動いた。1574年二月には織田方の美濃明智城を攻めると、信長・信忠の救援軍が来る前にこれを落とし、六月には信玄も落とせなかった徳川方の遠江高天神城を奪った。信長はこれにも救援を派遣したが間に合わなかった。東美濃、東遠江、奥三河では勝頼が優勢だったのである。武田家の版図が最大になったのは信玄ではなく勝頼の代である。そして、1575年五月、二万近い大軍を率いて三河長篠城を包囲する。



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強すぎる大将。
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