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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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構成の都合でナンバリングになってしまいました。

「戦国人物紹介」

014 木曾義昌 【きそよしまさ】 1540?-95

伊予守、左馬頭。この人は信濃木曾の豪族で信玄の三女真理姫を正室としているが、外様扱いなのか二十四将には入っていない。武田家滅亡の引き金となった人物である。

木曾氏(木曽氏)は木曽義仲(源義仲)の後裔とされ、代々信濃木曽谷を領した。義昌の父義康は信濃の豪族とともに信玄と争うが敗北、のちに降伏する。信玄は義昌に三女を配し親族衆とした。木曾は美濃への侵攻路となるため、信玄は木曾氏を厚遇したのである。

信玄の死後、織田・徳川家の勢力が拡大し、勝頼がこれに押されると、1582年二月、信長に内通する。これを聞いた勝頼は激怒し、みずから一万五千の兵を率いて諏訪まで進出する。義昌も急ぎ信長に救援を求めると、信長は嫡男信忠、森長可、団忠正を先陣とする軍を派遣、鳥居峠で武田軍を破った。ついで駿河から家康、関東から北条氏政、飛騨から金森長近が侵攻し、一気に武田家を滅ぼそうとの作戦が開始された。三月、信玄の五男で勝頼の弟である仁科五郎盛信のこもる高遠城が陥落。勝頼は新たに築いていた甲斐の新府城を放棄して東の小山田信茂を頼ったが、信茂の離反にあい、天目山で自害した。武田攻めが行われる中、義昌は本領を安堵され、さらに安曇・筑摩二郡を加増された。

本能寺の変が起こると、信濃も各勢力の侵入で混乱し、義昌も深志城(のちの松本城)をめぐって小笠原氏と争い敗れている。1590年、秀吉に所領を収められて、下総蘆戸(あじと、阿地土などとも書く。現在の旭市網戸)一万石を与えられた。義昌の死後、子の義利が継いだが、叔父義豊を殺害するなど粗暴の振る舞いが多く(義昌、義利とも木曾から下総への移封に不満だったともいわれる)、1600年に改易となった。

義昌の正室であった真理姫(真竜院)は義昌の裏切りに憤慨、離別して三男の義一(義通)と数人の侍女とともに木曽の山中に隠棲した。1647年、九十八歳で死去。



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