兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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国民不在のままで、何を争おうとしているんですかね、この人たちは。
菅もダメだが、小沢はもっとダメ、鳩山に至っては最悪。
ひそかに喜んでいるのは自民党だろう。
裏切りか離反か、同盟解消なのか。
「戦国人物紹介」
013 穴山信君 【あなやまのぶきみ】 1541-82
玄蕃頭(げんばのかみ)。号の梅雪(ばいせつ)で知られるので梅雪で通す。武田二十四将の一人。親族衆の筆頭とも言える立場で、武田姓を許される。二十四将図でも武田逍遥軒(信廉、信玄の弟)とともに信玄の両隣りに配されることが多い。
穴山氏は武田氏の一族で一時は武田氏、小山田氏、穴山氏で甲斐を三分するほどの勢力を持っていた。駿河の今川家と友好関係を持った時期もあるが、穴山信友は武田信虎の娘(信玄の姉、南松院)を正室とする。この二人の間に生まれたのが信君(梅雪)である。梅雪は信玄の二女見性院(見松院)を正室としているから、武田家とは二重の婚姻関係で結ばれていたことになる。
武田信満-信重-穴山信介-信懸-信綱-信友-信君(梅雪)-勝千代
甲斐南部の河内地方を支配し下山城に本拠を置いていたが、信玄の駿河攻めの結果、駿河庵原郡も支配し、江尻城を築いて統治にあたった(山県昌景の戦死後、江尻城代)。川中島や三方ヶ原の戦いでは本陣を守備、目立った武功はない。長篠の戦いにも参加しているが、戦場からの生還に成功している。
1582年、織田・徳川の武田攻めの前に家康を通して信長に内通、所領安堵と武田家の家名存続の確約を得る。武田攻めが始まると、家康に従って道案内をし、駿河口より甲斐に攻め入った。武田家滅亡後、甲斐は織田家の河尻秀隆に与えられたが、甲斐国内の梅雪の所領および駿河江尻領は安堵された。所領安堵の御礼のため、家康に従って上洛するが、堺見物の際に本能寺の変の報せに接する。急ぎ帰国しようとするが、いつの間にか家康ら一行とは別行動になってしまい、宇治田原で一揆の手にかかり殺されてしまう。金品を多く持っていたため、家康家臣からの強奪を恐れて別行動を取った結果、落ち武者狩りに遭ったとも言われる。家康がわざと見捨てたという見方もある。
秋山信友の一族である秋山虎泰の娘下山殿(お都摩の方)は穴山梅雪の養女となり、のちに徳川家康に仕えて万千代をもうけるが1591年に死去。万千代は梅雪の未亡人である見性院に育てられ、のちに途絶えていた武田家の名跡を継いで武田信吉と名乗るが、二十一歳の若さで死去、家は断絶している。家康は何とか武田家の家名を残そうとしたのだがうまくいかなかった。

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「裏切り者に相応しい自業自得な最期」と思われているが、
彼自身の置かれた状況は一般に思われている以上に複雑である。
菅もダメだが、小沢はもっとダメ、鳩山に至っては最悪。
ひそかに喜んでいるのは自民党だろう。
裏切りか離反か、同盟解消なのか。
「戦国人物紹介」
013 穴山信君 【あなやまのぶきみ】 1541-82
玄蕃頭(げんばのかみ)。号の梅雪(ばいせつ)で知られるので梅雪で通す。武田二十四将の一人。親族衆の筆頭とも言える立場で、武田姓を許される。二十四将図でも武田逍遥軒(信廉、信玄の弟)とともに信玄の両隣りに配されることが多い。
穴山氏は武田氏の一族で一時は武田氏、小山田氏、穴山氏で甲斐を三分するほどの勢力を持っていた。駿河の今川家と友好関係を持った時期もあるが、穴山信友は武田信虎の娘(信玄の姉、南松院)を正室とする。この二人の間に生まれたのが信君(梅雪)である。梅雪は信玄の二女見性院(見松院)を正室としているから、武田家とは二重の婚姻関係で結ばれていたことになる。
武田信満-信重-穴山信介-信懸-信綱-信友-信君(梅雪)-勝千代
甲斐南部の河内地方を支配し下山城に本拠を置いていたが、信玄の駿河攻めの結果、駿河庵原郡も支配し、江尻城を築いて統治にあたった(山県昌景の戦死後、江尻城代)。川中島や三方ヶ原の戦いでは本陣を守備、目立った武功はない。長篠の戦いにも参加しているが、戦場からの生還に成功している。
1582年、織田・徳川の武田攻めの前に家康を通して信長に内通、所領安堵と武田家の家名存続の確約を得る。武田攻めが始まると、家康に従って道案内をし、駿河口より甲斐に攻め入った。武田家滅亡後、甲斐は織田家の河尻秀隆に与えられたが、甲斐国内の梅雪の所領および駿河江尻領は安堵された。所領安堵の御礼のため、家康に従って上洛するが、堺見物の際に本能寺の変の報せに接する。急ぎ帰国しようとするが、いつの間にか家康ら一行とは別行動になってしまい、宇治田原で一揆の手にかかり殺されてしまう。金品を多く持っていたため、家康家臣からの強奪を恐れて別行動を取った結果、落ち武者狩りに遭ったとも言われる。家康がわざと見捨てたという見方もある。
秋山信友の一族である秋山虎泰の娘下山殿(お都摩の方)は穴山梅雪の養女となり、のちに徳川家康に仕えて万千代をもうけるが1591年に死去。万千代は梅雪の未亡人である見性院に育てられ、のちに途絶えていた武田家の名跡を継いで武田信吉と名乗るが、二十一歳の若さで死去、家は断絶している。家康は何とか武田家の家名を残そうとしたのだがうまくいかなかった。
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「裏切り者に相応しい自業自得な最期」と思われているが、
彼自身の置かれた状況は一般に思われている以上に複雑である。
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