兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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政治の話題を書いていないと思いつつ。この状況にあって、なお小沢一郎を擁立しようとする人は暑さで頭がやられちゃったのかね。菅がいいとも思わないけど。
政治の無策が市場の失望を呼んで、円高、株安が進行し、その結果、私の貴重な財産が目減りするというのは勘弁してほしい。
「戦国人物紹介」
政治の無策が市場の失望を呼んで、円高、株安が進行し、その結果、私の貴重な財産が目減りするというのは勘弁してほしい。
「戦国人物紹介」
012 小山田信茂 【おやまだのぶしげ】 1539-82
左兵衛尉、越前守。武田二十四将の一人だが、武田家滅亡の際の「裏切り」行為のため、二十四将から除かれたり、後ろ姿で描かれていたりする場合もある。
小山田氏は桓武平氏良文流(平良文の子孫)で坂東八平氏の一つである秩父(ちちぶ)氏の流れを組むという。鎌倉幕府が成立する頃にはすでに甲斐都留郡(郡内地方、甲斐国東部)に勢力を持っていたようである。甲斐の国人として独自の勢力を有しており、越中守信有は武田家の信縄と信恵が家督を争ったときには信恵側を支援している。また北条氏と戦うこともあった。のち信虎の代になって武田家とは和睦している。また越中守信有は本拠地をこれまでの中津森から谷村に移している。その子も信有を名乗り、出羽守を称す。甲府内に屋敷を与えられるなど、この頃から徐々に武田家への帰属を強める。出羽守信有は信玄の信濃攻めに従うが、村上義清との戦いで戦死したと言われる。
信茂は出羽守信有の子で母は武田信虎の妹とされる。信玄とはいとこということになる。譜代家老衆二百五十騎持ち。信玄に従って各地を転戦するが、もっとも有名なのが三方ヶ原の戦いでの活躍である。小山田隊は武田家でも投石部隊をもって先陣を務めた。当時は、石を投げつけられると災厄が起こるという迷信があったため、効果は絶大で、挑発に乗った徳川軍の石川数正隊が攻撃命令を待たずして小山田軍に突撃を始めてしまう。数に勝る武田軍は徳川軍の攻撃を押し返すと圧勝を収める。
信玄の死後も勝頼に従い、長篠の戦いにも参加している。1582年、織田家の武田攻めが始まると、勝頼に新府城を捨てて自らの居城岩殿山城へ逃れるように勧める。真田昌幸も自領へ逃れるように誘ったが、勝頼は信茂を選択する。しかし、信茂は信長に通じ入城を拒否し、進退に窮した勝頼一行は天目山で自害するに至る。こうして自領を戦禍から守った信茂だが、信長を初め、他家からは武田家の家臣と見られていたようである。武田家を「裏切った」行為が不興を買い、最後は甲府の善光寺で殺された。
次回の穴山氏もそうだが、小山田氏も武田家の親類衆であり重用されたが、完全な家臣だったかというと微妙である。織田家と徳川家の関係も似たものがある。家康は姉川の戦いを初めとする信長の戦いに駆り出され、対等な同盟というよりもほとんど家臣化されていたが、独自に外交を行うこともあった。最近の研究では朝倉家と浅井家の関係も対等ではなく従属に近いものだったという説がある。ゲームとは違って簡単には定義できない関係なのである。

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この人に限らないのだが、主君から拝領したものでない限り、自分の家の家紋を付けるのでは・・・。
左兵衛尉、越前守。武田二十四将の一人だが、武田家滅亡の際の「裏切り」行為のため、二十四将から除かれたり、後ろ姿で描かれていたりする場合もある。
小山田氏は桓武平氏良文流(平良文の子孫)で坂東八平氏の一つである秩父(ちちぶ)氏の流れを組むという。鎌倉幕府が成立する頃にはすでに甲斐都留郡(郡内地方、甲斐国東部)に勢力を持っていたようである。甲斐の国人として独自の勢力を有しており、越中守信有は武田家の信縄と信恵が家督を争ったときには信恵側を支援している。また北条氏と戦うこともあった。のち信虎の代になって武田家とは和睦している。また越中守信有は本拠地をこれまでの中津森から谷村に移している。その子も信有を名乗り、出羽守を称す。甲府内に屋敷を与えられるなど、この頃から徐々に武田家への帰属を強める。出羽守信有は信玄の信濃攻めに従うが、村上義清との戦いで戦死したと言われる。
信茂は出羽守信有の子で母は武田信虎の妹とされる。信玄とはいとこということになる。譜代家老衆二百五十騎持ち。信玄に従って各地を転戦するが、もっとも有名なのが三方ヶ原の戦いでの活躍である。小山田隊は武田家でも投石部隊をもって先陣を務めた。当時は、石を投げつけられると災厄が起こるという迷信があったため、効果は絶大で、挑発に乗った徳川軍の石川数正隊が攻撃命令を待たずして小山田軍に突撃を始めてしまう。数に勝る武田軍は徳川軍の攻撃を押し返すと圧勝を収める。
信玄の死後も勝頼に従い、長篠の戦いにも参加している。1582年、織田家の武田攻めが始まると、勝頼に新府城を捨てて自らの居城岩殿山城へ逃れるように勧める。真田昌幸も自領へ逃れるように誘ったが、勝頼は信茂を選択する。しかし、信茂は信長に通じ入城を拒否し、進退に窮した勝頼一行は天目山で自害するに至る。こうして自領を戦禍から守った信茂だが、信長を初め、他家からは武田家の家臣と見られていたようである。武田家を「裏切った」行為が不興を買い、最後は甲府の善光寺で殺された。
次回の穴山氏もそうだが、小山田氏も武田家の親類衆であり重用されたが、完全な家臣だったかというと微妙である。織田家と徳川家の関係も似たものがある。家康は姉川の戦いを初めとする信長の戦いに駆り出され、対等な同盟というよりもほとんど家臣化されていたが、独自に外交を行うこともあった。最近の研究では朝倉家と浅井家の関係も対等ではなく従属に近いものだったという説がある。ゲームとは違って簡単には定義できない関係なのである。
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この人に限らないのだが、主君から拝領したものでない限り、自分の家の家紋を付けるのでは・・・。
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