兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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家康が作った血のスペアとしての「御三家」ですが、宗家の血が絶えた時にも、御三家に後継者がいれば、徳川家は滅びずに済みます。そして、もし、徳川幕府と朝廷が対立した時にも、朝廷に味方する御三家(具体的には水戸)がいれば、徳川家は残ります。
このあたりは、現在発売中の『逆説の日本史19』をどうぞ。
大老井伊直弼は「徳川四天王」であった井伊直政の直系の(男系)子孫なんですよね(彦根藩主としては養子を挟みますが)。譜代筆頭として、直政の血を絶やさないようにしたと言います。
血のスペア、というのは家康の独創ではなく、室町幕府にも似たような仕組みがありましたし(「足利氏が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とは巷間言われたようですが、足利氏が絶えることは起こらなかったので、実際のところは不明)、また天皇家には宮家という血のスペアがあります。
いまや、「ありました」と書くべきでしょうかね。いまや皇族は直宮家(じきみやけ)しかありません(三笠宮、常陸宮、高円宮、桂宮、秋篠宮)。敗戦後に、伏見宮などを初めとした皇族は皇籍を離脱しました。この結果、直宮家には秋篠宮の悠仁親王以外に男子がいないという状況になっています。男系以外は天皇になった例はありませんから(父系をさかのぼると必ず男子だけで天皇にたどり着く)、このままでは皇位継承や皇室活動が支障をきたすことになります。旧皇族を復活させるとか、旧皇族の男系男子から養子を迎えるなど、対策を取る必要があると思います。天皇家で女系はありえません(「天皇家」の性質、性格が変わってしまい、もとの「天皇家」ではなくなってしまう)。このあたりは易姓革命の考え方なども参照してほしいと思います(天皇家に姓がないのはおそらくこれに基づく)。
話がそれました。徳川家に話を戻しましょう。最後の将軍、徳川慶喜が水戸出身というのはご存知かと思いますが(水戸は将軍になれないはずだったのだが、吉宗が創った「御三卿」の一つである一橋家の後継者が絶えたので、水戸から慶喜が養子に入ったため、将軍家を継ぐことができた)、幕末におけるほかの徳川家一門はどうだったのでしょうか。
まずは会津の松平容保ですが、もともと会津松平家は家光の弟、保科正之に始まります(恐妻家の秀忠が側室に産ませた子)。旧武田家の家臣である保科氏の養子となったので、「保科」を称しています(松平を称したのは三代目以降)。容保は尾張家の支藩である美濃高須藩から会津松平家に養子に入っていますが、さらにさかのぼると、水戸家に行きつきます。慶喜と容保に同じ水戸家の出身としての連帯感があったのかどうかはよくわかりませんが。ちなみに、現在の徳川宗家は容保の子孫に当たります。
「八重の桜」でも、容保が定敬(桑名藩主、京都所司代)と兄弟であるという話が出てきますが、兄の慶勝(尾張藩主)、茂栄(尾張藩主、のち一橋家)とあわせて、兄弟は「高須四兄弟」と呼ばれました。
松平春嶽(慶永)、越前松平家は家康の二男秀康に始まりますが、春嶽自身は御三卿の一つである田安家の出身で、さらにさかのぼると、八代吉宗にたどり着きます(紀州家)
外様を含めた他藩にしても、どこまでかさかのぼると、誰かの親戚、ということで、慶喜も容保も殺されることはありませんでした。そしてまたその血が後世に受け継がれていきます。
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大老井伊直弼は「徳川四天王」であった井伊直政の直系の(男系)子孫なんですよね(彦根藩主としては養子を挟みますが)。譜代筆頭として、直政の血を絶やさないようにしたと言います。
血のスペア、というのは家康の独創ではなく、室町幕府にも似たような仕組みがありましたし(「足利氏が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とは巷間言われたようですが、足利氏が絶えることは起こらなかったので、実際のところは不明)、また天皇家には宮家という血のスペアがあります。
いまや、「ありました」と書くべきでしょうかね。いまや皇族は直宮家(じきみやけ)しかありません(三笠宮、常陸宮、高円宮、桂宮、秋篠宮)。敗戦後に、伏見宮などを初めとした皇族は皇籍を離脱しました。この結果、直宮家には秋篠宮の悠仁親王以外に男子がいないという状況になっています。男系以外は天皇になった例はありませんから(父系をさかのぼると必ず男子だけで天皇にたどり着く)、このままでは皇位継承や皇室活動が支障をきたすことになります。旧皇族を復活させるとか、旧皇族の男系男子から養子を迎えるなど、対策を取る必要があると思います。天皇家で女系はありえません(「天皇家」の性質、性格が変わってしまい、もとの「天皇家」ではなくなってしまう)。このあたりは易姓革命の考え方なども参照してほしいと思います(天皇家に姓がないのはおそらくこれに基づく)。
話がそれました。徳川家に話を戻しましょう。最後の将軍、徳川慶喜が水戸出身というのはご存知かと思いますが(水戸は将軍になれないはずだったのだが、吉宗が創った「御三卿」の一つである一橋家の後継者が絶えたので、水戸から慶喜が養子に入ったため、将軍家を継ぐことができた)、幕末におけるほかの徳川家一門はどうだったのでしょうか。
まずは会津の松平容保ですが、もともと会津松平家は家光の弟、保科正之に始まります(恐妻家の秀忠が側室に産ませた子)。旧武田家の家臣である保科氏の養子となったので、「保科」を称しています(松平を称したのは三代目以降)。容保は尾張家の支藩である美濃高須藩から会津松平家に養子に入っていますが、さらにさかのぼると、水戸家に行きつきます。慶喜と容保に同じ水戸家の出身としての連帯感があったのかどうかはよくわかりませんが。ちなみに、現在の徳川宗家は容保の子孫に当たります。
「八重の桜」でも、容保が定敬(桑名藩主、京都所司代)と兄弟であるという話が出てきますが、兄の慶勝(尾張藩主)、茂栄(尾張藩主、のち一橋家)とあわせて、兄弟は「高須四兄弟」と呼ばれました。
松平春嶽(慶永)、越前松平家は家康の二男秀康に始まりますが、春嶽自身は御三卿の一つである田安家の出身で、さらにさかのぼると、八代吉宗にたどり着きます(紀州家)
外様を含めた他藩にしても、どこまでかさかのぼると、誰かの親戚、ということで、慶喜も容保も殺されることはありませんでした。そしてまたその血が後世に受け継がれていきます。
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