兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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佐々成政もそうなんだけど、ただ強いだけじゃなくて、哀愁のある中年武将って、いいよねえ・・・。
「戦国人物紹介」
011 秋山信友 【あきやまのぶとも】 1531-75
伯耆守(ほうきのかみ)、いわゆる武田二十四将の一人。秋山氏は武田氏初代信義の弟加賀美遠光の子光朝が甲斐巨摩郡秋山に住んだことに始まる。光朝の兄弟長清は小笠原氏の祖、光行は南部氏の祖となっている。
信濃攻めでは南部の伊奈方面を受け持つ。伊奈郡代、のちに飯田城代となり、この方面の最前線を担当する。1567年、信長の嫡男信忠と信玄の娘松姫(信松院)の婚約が成立すると、名代として岐阜に赴くなど外交でも活躍を見せる。しかし、武田家と織田家が敵対するとこの婚儀も破談となる。1572年、信玄の西上作戦に連動して織田方の美濃岩村城を攻める。城主遠山景遠は病死しており、未亡人(信長の叔母)が城を守っていたが、信長の援軍が間に合わず開城。信友は遠山未亡人を嫁に迎え、遠山氏の養子となっていた信長の五男御坊丸(織田勝長)を捕らえて甲斐に送った。
猛将というと無骨なイメージがあるが、ともかく、四十過ぎの男が、降伏してきた城主の後家さんに一目惚れして嫁に迎えてしまうのである。「わしの嫁になってくだされ」と頭を下げる信友と、それを困惑しながらも受け入れる遠山未亡人の姿を想像するとほほえましいものがある。二人の仲睦まじい暮らしは三年近く続く。
しかし、こういう「裏切り」、しかも身内の裏切りは許さないのが信長である。1575年五月に長篠の戦いで勝利すると、すぐさま岩村城を攻めた。信友もよく守ったが、敵中に孤立した形となり援軍も望めない中、十一月に降伏勧告を受け入れる。岐阜へ連行された二人は長良川で逆さ磔とされた。

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さすがにこれは10代か20代だろw
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011 秋山信友 【あきやまのぶとも】 1531-75
伯耆守(ほうきのかみ)、いわゆる武田二十四将の一人。秋山氏は武田氏初代信義の弟加賀美遠光の子光朝が甲斐巨摩郡秋山に住んだことに始まる。光朝の兄弟長清は小笠原氏の祖、光行は南部氏の祖となっている。
信濃攻めでは南部の伊奈方面を受け持つ。伊奈郡代、のちに飯田城代となり、この方面の最前線を担当する。1567年、信長の嫡男信忠と信玄の娘松姫(信松院)の婚約が成立すると、名代として岐阜に赴くなど外交でも活躍を見せる。しかし、武田家と織田家が敵対するとこの婚儀も破談となる。1572年、信玄の西上作戦に連動して織田方の美濃岩村城を攻める。城主遠山景遠は病死しており、未亡人(信長の叔母)が城を守っていたが、信長の援軍が間に合わず開城。信友は遠山未亡人を嫁に迎え、遠山氏の養子となっていた信長の五男御坊丸(織田勝長)を捕らえて甲斐に送った。
猛将というと無骨なイメージがあるが、ともかく、四十過ぎの男が、降伏してきた城主の後家さんに一目惚れして嫁に迎えてしまうのである。「わしの嫁になってくだされ」と頭を下げる信友と、それを困惑しながらも受け入れる遠山未亡人の姿を想像するとほほえましいものがある。二人の仲睦まじい暮らしは三年近く続く。
しかし、こういう「裏切り」、しかも身内の裏切りは許さないのが信長である。1575年五月に長篠の戦いで勝利すると、すぐさま岩村城を攻めた。信友もよく守ったが、敵中に孤立した形となり援軍も望めない中、十一月に降伏勧告を受け入れる。岐阜へ連行された二人は長良川で逆さ磔とされた。
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さすがにこれは10代か20代だろw
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