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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■武田二十四将8

・多田満頼 【ただみつより】 ?-1563

淡路守。昌澄。摂津源氏の一族多田源氏という。美濃で生まれるが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄にも仕えた。北条氏の河越夜戦のときにも書いたが、夜襲は敵味方の識別、および地形の把握が困難なため高度な技術を必要とする。満頼はその夜襲のスペシャリストとして知られた。
死後は子常昌が継ぐが長篠で戦死。常昌の弟昌俊が継いだ。昌俊の死後、子の昌綱が家康に仕え、のち徳川義直(尾張)の傅役となった。

・横田高松 【よこたたかまつ】 ?-1550

備中守。近江佐々木氏の一族という。近江の出身というが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄の信濃攻めで活躍するが、村上義清との砥石城の戦いで戦死。信玄はその死を嘆き、「武辺の者になろうとするならば、原美濃(虎胤)、横田備中のようになれ」と言ったという。
原虎胤の嫡男泰景が婿養子となって継いだが、長篠の戦いで戦死。子の尹松が跡を継ぎ、武田家滅亡後は徳川家に仕えて旗本となった。

・三枝守友 【さえぐさもりとも】 1537-75

勘解由(かげゆ)左衛門尉。奥近習を経て侍大将となる。1570年の駿河花沢城攻めで一番槍の武功を挙げ、信玄から感状を受ける。また山県昌景にも気に入られ、その娘をめとり、のちの昌景の猶子(相続権のない養子)となり、山県善右衛門と改めた。
長篠の戦いでは長篠城を監視する鳶ノ巣山砦を守備するが、酒井忠次の率いる別働隊の攻撃を受けて戦死する。武田家滅亡後、一族は徳川家に仕える。

・土屋昌次 【つちやまさつぐ】 1545-75

右衛門尉。昌続。奥近習を経て侍大将となる。三方ヶ原の戦いで戦功を挙げる。長篠の戦いでは敵陣に突撃するが銃撃を浴びて戦死。
弟の昌恒が跡を継ぐ。武田家滅亡の際は勝頼に従い、天目山で織田方の滝川一益隊と戦って戦死。その奮戦ぶりは「片手千人斬り」と称された。
子孫はのちに常陸土浦藩主となった。土屋政直は老中となり、八代将軍吉宗の擁立に貢献があった人物の一人。武田旧臣では真田家に次いで出世した一族と言えよう。
 
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