兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「一揆」の「揆」という字は、はかる(図る、謀る)という意味です。必ずしも暴動を起こしたわけではありません。集団自体が「一揆」なんですね。
外伝 夏目吉信 【なつめよしのぶ】 1518?-72
次郎左衛門、徳川家臣。
1561年、三河長沢城(長沢松平氏?)攻めなど各地の戦いに従軍するが、1563年の三河一向一揆では一揆側に属す。野羽城にこもるが、ともに城にこもっていた乙部八兵衛の裏切りで松平伊忠(深溝松平氏)に捕らえられる。このとき伊忠の嘆願により許されて家康への帰参を果たす。その後、三河、遠江内の郡代を歴任した。
1572年の三方ヶ原の戦いでは家康の兜と馬を借り、武田軍に突入、家康の身代わりとなって戦死。
一説に明治の文豪夏目漱石は吉信の子孫とか。
追記
物足りないでしょうから、小説的に書くとこうなります。
家康は敗色が濃くなる中、なおも戦場に留まって武田勢と戦っていた。吉信は手勢を率いて家康の元に駆けつけ、武田勢を蹴散らすと、家康に向かって言った、「殿、ここはお退きくだされ」
家康にも大将としての矜持がある。そう簡単に引くわけにはいかない。
埒が明かぬと見た吉信、馬上の家康をつかむや地面に引きずり落とし、兜を奪った。そして、家康を自らの馬に乗せ、馬の轡(くつわ)をつかむと、浜松城の方角を向かせた。それから後ろに回り込むと、槍で馬の尻を突いた。馬は一声嘶くと、家康を乗せたまま浜松城へと走り去った。
家康の馬にまたがった吉信は武田勢に突入し叫んだ、「我こそは家康なり」
外伝 夏目吉信 【なつめよしのぶ】 1518?-72
次郎左衛門、徳川家臣。
1561年、三河長沢城(長沢松平氏?)攻めなど各地の戦いに従軍するが、1563年の三河一向一揆では一揆側に属す。野羽城にこもるが、ともに城にこもっていた乙部八兵衛の裏切りで松平伊忠(深溝松平氏)に捕らえられる。このとき伊忠の嘆願により許されて家康への帰参を果たす。その後、三河、遠江内の郡代を歴任した。
1572年の三方ヶ原の戦いでは家康の兜と馬を借り、武田軍に突入、家康の身代わりとなって戦死。
一説に明治の文豪夏目漱石は吉信の子孫とか。
追記
物足りないでしょうから、小説的に書くとこうなります。
家康は敗色が濃くなる中、なおも戦場に留まって武田勢と戦っていた。吉信は手勢を率いて家康の元に駆けつけ、武田勢を蹴散らすと、家康に向かって言った、「殿、ここはお退きくだされ」
家康にも大将としての矜持がある。そう簡単に引くわけにはいかない。
埒が明かぬと見た吉信、馬上の家康をつかむや地面に引きずり落とし、兜を奪った。そして、家康を自らの馬に乗せ、馬の轡(くつわ)をつかむと、浜松城の方角を向かせた。それから後ろに回り込むと、槍で馬の尻を突いた。馬は一声嘶くと、家康を乗せたまま浜松城へと走り去った。
家康の馬にまたがった吉信は武田勢に突入し叫んだ、「我こそは家康なり」
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