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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「強力な多剤耐性菌が拡散」(時事通信)

http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=int_30&k=2010081700004

この手の話は何年に一回かあるのですが、抗生物質が効かないというのは怖いですね。


三方ヶ原の戦いと言えば、夏目吉信なのですが(違)、この人、三河一向一揆(1563-64)では門徒側(一揆側)に属して家康と戦っています。

三河一向一揆の発端については諸説ありますが、根本には家康の領主権と一向宗の既得権の衝突がありました。宗教団体と言っても、経済的、政治的な特権と武力を持っており、戦国大名も無視できない存在でした。主君への忠義で知られる三河武士ですが、一族である松平氏の一部や家臣の一部が一揆側に加わり、家康は宗教の恐ろしさを知ることになります。

一揆側に属した家康家臣でもっとも有名なのは本多正信でしょう。
門徒側が蜂起すると、これに加わり、一揆が終焉すると、三河を去って加賀に赴いたと言われます。のちに家康は高木広正を遣いに出して正信を呼び戻し、正信は再び家康に仕えることになります。家康の帷幄の臣(水魚の交わりとまで言われた)として有名ですが、帰参直後の姉川の戦いでは功を焦ったのか戦場で槍を振るう活躍も見せています(本能寺の変の際の伊賀越えで帰参したというのは訛伝)

もう一人知られるのが蜂谷半之丞貞次。
貞次は一揆側を攻めに来た大久保忠政(忠世、忠佐兄弟のいとこ)を奇襲で破ります。大久保勢は水田に落とされてあわや全滅寸前でしたが、貞次は突如、付近の寺の周りをぐるぐると回りだします。この奇妙な行為に敵味方とも呆然としますが、これはこの隙に大久保勢に逃げろという合図でした。どうも本気で家康には反抗する意思がなかったようです。その証拠に、家康本人と戦場でまみえた際には逃げ出そうとします。しかし、別の兵士が戦いを挑むと、引き返してきてあっという間に討ち取ります。家康がさらに追いすがると一目散に逃げてしまいました。一揆側に属したものの、家康に槍を向けることはためらったようです。一揆が終わると、帰参を許されますが、同じ年の吉田城攻めで本多忠勝と先陣を争い、敵の銃弾を受けて戦死します。二十六歳。

このほかに門徒側に属した者としては、「槍の半蔵」と呼ばれた渡辺守綱、賤ヶ岳七本槍で知られる加藤嘉明の父加藤教明、徳川四天王の一人である酒井忠次の叔父と言われる酒井忠尚などがいます。一族の中で分かれて争う者も少なくありませんでした。

あれ、三河一向一揆だけで終わってしまいました。この戦いで、家康は三河を支配することに成功します。

ちなみに、「一揆」と言っても、筵旗(むしろばた)に竹槍を持った農民が年貢の減免を求めて立ち上がる、というものではなく(これは江戸時代の百姓一揆のイメージ)、武士や農民(この頃は完全には分離していない)が特定の目的のもとに集団を結成すること(あるいはその集団)で、一向一揆のほかにも、土一揆、徳政一揆、国人一揆、国一揆などいろいろな種類がありました。

一向一揆も信教の自由を求めて立ち上がったわけではありません(そういう側面がないとは言わない)。そういう意味では、ヨーロッパの宗教改革や宗教戦争とは意を異にします。
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