兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■武田二十四将7
信虎時代、信虎から一字を賜った将がいます。他国から来た彼らはおもに足軽大将として活躍しますが、信虎が武田家独自の家臣を編成しようとした試みとも考えられます。
・小幡虎盛 【おばたとらもり】 1491-1561
小畠姓。孫十郎、山城守。遠江出身だが、甲斐に赴き武田信虎に仕えて足軽大将となり活躍、信虎から一字を賜り虎盛と名乗る。芦毛の馬が返り血で栗毛に見えたほどの戦ぶりで「鬼虎」と称される。三十六回の戦いに参加し、もらった感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)も三十六枚、四十一ヶ所の傷を被ったという豪の者。晩年は高坂昌信の副将として海津城に在番するが、第四回の川中島の戦いの直前に死去した。遺言は「よくみのほどをしれ」
子の小幡昌盛(1534-1582、孫次郎、又兵衛、豊後守)も海津城番を務めるが、1582年、武田家滅亡の直前に病死。昌盛の子が兵学者として知られる小幡勘兵衛(景憲)。勘兵衛は徳川家に仕え、大坂の陣では大坂城に入って徳川方に豊臣家の情報を伝えた。甲州流兵学を集大成し、多くの門弟を抱えた。また『甲陽軍鑑』の編者ともいう。
・原虎胤 【はらとらたね】 1497-1564
美濃守。もと下総千葉氏の家臣。のち信虎、信玄に仕える。足軽大将として活躍し、三十八回の戦いに参加し、向こう傷は五十三ヶ所、その武勇から「鬼美濃」「夜叉美濃」と呼ばれ、信虎から一字を賜って虎胤と名乗る。1521年の飯田河原の戦いで今川氏の家臣福島正成(北条綱成の父とされる)を討ち取ったと言われる。
信玄が家督を継いだときにはすでに老練の域に達しており、信濃攻めに貢献した。1553年、虎胤の信仰する日蓮宗徒と浄土宗徒が争うことがあり、信玄は虎胤に改宗を迫ったが、受け入れずに信玄のもとを去り、北条氏康に仕えた。翌年、善徳寺の会見(甲相駿三国同盟が結ばれた)で帰参する。1559年、信玄が出家すると、虎胤も剃髪し、清岩と称した。川中島の戦いのときには引退していた。

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モーニングスター(?)って・・・古代ローマのコロシアムで戦う奴隷みたいw
・原昌胤 【はらまさたね】 1531-75
隼人佐(はやとのすけ)。虎胤とは別の原氏。信玄、勝頼に仕え、陣馬奉行を務める。地理に明るく、信玄にも戦場での布陣の的確さを賞された。譜代家老衆となり百二十騎持ちとされる。山県昌景とともに家中最高の「職」を務め、軍政面で活躍。武田家の竜朱印状の奏者として名が見える。
職業柄、戦闘に直接参加することは少なかったが、1575年の長篠の戦いでは手勢を率いて敵陣に突入して戦死する。
■おまけコラム
方向音痴という人がいますが、逆に地理に強い人というのもいます。私もどちらかというとそのタイプで、カーナビがない時代、地図一枚で車を運転して旅行していました。地図を見るとだいたいの地理が頭の中に入ってしまうんですね。
原昌胤は「山中の道のないところを一人分け入った」ということで、道なき道まで切り開く能力を持っていたようです。
三国志だとこの人、鄧艾(とうがい、字が出るかな?)。三国時代、魏の将ですが、吃音(どもり)というハンデがありながら、屯田や土地開発で功績を上げ、司馬懿に評価されて用いられます。また任地の地図を作ったとあり、地理を見る能力に優れていたようです。
蜀侵攻では要衝の剣閣を避けて間道を通り、主力より先に劉禅を降伏させます。謀反を疑われて殺されてしまうのが惜しいところです。
■武田二十四将7
信虎時代、信虎から一字を賜った将がいます。他国から来た彼らはおもに足軽大将として活躍しますが、信虎が武田家独自の家臣を編成しようとした試みとも考えられます。
・小幡虎盛 【おばたとらもり】 1491-1561
小畠姓。孫十郎、山城守。遠江出身だが、甲斐に赴き武田信虎に仕えて足軽大将となり活躍、信虎から一字を賜り虎盛と名乗る。芦毛の馬が返り血で栗毛に見えたほどの戦ぶりで「鬼虎」と称される。三十六回の戦いに参加し、もらった感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)も三十六枚、四十一ヶ所の傷を被ったという豪の者。晩年は高坂昌信の副将として海津城に在番するが、第四回の川中島の戦いの直前に死去した。遺言は「よくみのほどをしれ」
子の小幡昌盛(1534-1582、孫次郎、又兵衛、豊後守)も海津城番を務めるが、1582年、武田家滅亡の直前に病死。昌盛の子が兵学者として知られる小幡勘兵衛(景憲)。勘兵衛は徳川家に仕え、大坂の陣では大坂城に入って徳川方に豊臣家の情報を伝えた。甲州流兵学を集大成し、多くの門弟を抱えた。また『甲陽軍鑑』の編者ともいう。
・原虎胤 【はらとらたね】 1497-1564
美濃守。もと下総千葉氏の家臣。のち信虎、信玄に仕える。足軽大将として活躍し、三十八回の戦いに参加し、向こう傷は五十三ヶ所、その武勇から「鬼美濃」「夜叉美濃」と呼ばれ、信虎から一字を賜って虎胤と名乗る。1521年の飯田河原の戦いで今川氏の家臣福島正成(北条綱成の父とされる)を討ち取ったと言われる。
信玄が家督を継いだときにはすでに老練の域に達しており、信濃攻めに貢献した。1553年、虎胤の信仰する日蓮宗徒と浄土宗徒が争うことがあり、信玄は虎胤に改宗を迫ったが、受け入れずに信玄のもとを去り、北条氏康に仕えた。翌年、善徳寺の会見(甲相駿三国同盟が結ばれた)で帰参する。1559年、信玄が出家すると、虎胤も剃髪し、清岩と称した。川中島の戦いのときには引退していた。
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モーニングスター(?)って・・・古代ローマのコロシアムで戦う奴隷みたいw
・原昌胤 【はらまさたね】 1531-75
隼人佐(はやとのすけ)。虎胤とは別の原氏。信玄、勝頼に仕え、陣馬奉行を務める。地理に明るく、信玄にも戦場での布陣の的確さを賞された。譜代家老衆となり百二十騎持ちとされる。山県昌景とともに家中最高の「職」を務め、軍政面で活躍。武田家の竜朱印状の奏者として名が見える。
職業柄、戦闘に直接参加することは少なかったが、1575年の長篠の戦いでは手勢を率いて敵陣に突入して戦死する。
■おまけコラム
方向音痴という人がいますが、逆に地理に強い人というのもいます。私もどちらかというとそのタイプで、カーナビがない時代、地図一枚で車を運転して旅行していました。地図を見るとだいたいの地理が頭の中に入ってしまうんですね。
原昌胤は「山中の道のないところを一人分け入った」ということで、道なき道まで切り開く能力を持っていたようです。
三国志だとこの人、鄧艾(とうがい、字が出るかな?)。三国時代、魏の将ですが、吃音(どもり)というハンデがありながら、屯田や土地開発で功績を上げ、司馬懿に評価されて用いられます。また任地の地図を作ったとあり、地理を見る能力に優れていたようです。
蜀侵攻では要衝の剣閣を避けて間道を通り、主力より先に劉禅を降伏させます。謀反を疑われて殺されてしまうのが惜しいところです。
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