兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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■三方ヶ原の戦い(1572年12月22日)
1572年10月、信玄は西上作戦を開始する。上洛を目指していたかどうかには諸説あるが、順調であればそのまま上洛を目指して織田方と対決、不調であれば徳川領への侵略戦になるわけで、このあたりは柔軟な対応を考えていただろう。
12月、信玄は二ヶ月の攻囲の末に遠江二俣城を落とすと、家康の居城浜松城をかすめるように西へ向かった。家康を誘い出す作戦である。これを見た家康も受けて立った。武田軍の素通りを許せば家康の威信は地に落ちる。いまは徳川に味方している豪族たちもいつ武田家に寝返るかわからないのである。
家康は三方ヶ原の台地を過ぎ祝田(ほうだ)の坂を下る武田軍を追撃しようとしたが、家康の出陣を知った武田軍は急速反転(家康の出陣を予想して、先鋒から本陣まで逆にして行軍していたともいう)、三方ヶ原の台地に魚鱗の陣を敷いて待ちかまえた。一方の徳川軍は武田軍を包囲すべく鶴翼の陣を敷いたが、いかんせん兵力に大きな差があった。武田軍は二万五千、徳川軍は織田家からの援軍三千を合わせても一万一千、倍以上の開きがあった。
いざ戦闘が開始されると序盤は徳川軍が優勢だったが、重厚な陣を敷く武田軍には余裕があった。頃合いを見て二陣を繰り出すと、兵力に劣る徳川軍はたまらずに潰走を始めた。夕闇の中、追撃を行う武田軍、家康も逃げに逃げた。途中で身代わりとなったのが夏目吉信や鈴木久三郎といった家臣たち。家康は恐怖のあまり脱糞して浜松城内に逃げ込んだという。この戦いで徳川軍は千人(二千人とも)の死傷者を出して大敗、一方の武田軍の死傷者はわずか二百人(四百人とも)だったという。
浜松城に逃げ帰った家康は、城門を開き(そうしないと徳川軍の兵が収容できない)、かがり火をたかせた。いわゆる「空城の計」を行ったと言われる。家康は湯漬けをかきこむと、いびきをかいて寝てしまったという。家康の大胆さというよりは、破れかぶれといった感である。武田軍も浜松城攻めに時間を費やすことはせず、さらに西へと向かった。
三方ヶ原の戦いは家康唯一の負け戦、という言い方もされる。しかし、あまり知られていないが家康は三河一向一揆との戦いで苦戦しており、秀吉との小牧長久手の戦いでも最終的には屈服を余儀なくされている。戦に勝っても政治で負ければそれは負けなのである。三方ヶ原以外常勝だったということはない。
戦後、馬場美濃守は信玄に報告している。「徳川軍の死体を見ると、北に向かったものはみなうつ伏せ、南に向かったものはみなあお向けになっている。いずれも討ち死にしたもので、逃げた兵は一人も見当たらない。さすがは三河武士だ」と、これは後世の脚色だろうが、徳川軍が寡兵ながら勇猛果敢に戦ったことは事実である。そして家康自身、「あの信玄と戦った」という経験は貴重な財産となった。
1572年10月、信玄は西上作戦を開始する。上洛を目指していたかどうかには諸説あるが、順調であればそのまま上洛を目指して織田方と対決、不調であれば徳川領への侵略戦になるわけで、このあたりは柔軟な対応を考えていただろう。
12月、信玄は二ヶ月の攻囲の末に遠江二俣城を落とすと、家康の居城浜松城をかすめるように西へ向かった。家康を誘い出す作戦である。これを見た家康も受けて立った。武田軍の素通りを許せば家康の威信は地に落ちる。いまは徳川に味方している豪族たちもいつ武田家に寝返るかわからないのである。
家康は三方ヶ原の台地を過ぎ祝田(ほうだ)の坂を下る武田軍を追撃しようとしたが、家康の出陣を知った武田軍は急速反転(家康の出陣を予想して、先鋒から本陣まで逆にして行軍していたともいう)、三方ヶ原の台地に魚鱗の陣を敷いて待ちかまえた。一方の徳川軍は武田軍を包囲すべく鶴翼の陣を敷いたが、いかんせん兵力に大きな差があった。武田軍は二万五千、徳川軍は織田家からの援軍三千を合わせても一万一千、倍以上の開きがあった。
いざ戦闘が開始されると序盤は徳川軍が優勢だったが、重厚な陣を敷く武田軍には余裕があった。頃合いを見て二陣を繰り出すと、兵力に劣る徳川軍はたまらずに潰走を始めた。夕闇の中、追撃を行う武田軍、家康も逃げに逃げた。途中で身代わりとなったのが夏目吉信や鈴木久三郎といった家臣たち。家康は恐怖のあまり脱糞して浜松城内に逃げ込んだという。この戦いで徳川軍は千人(二千人とも)の死傷者を出して大敗、一方の武田軍の死傷者はわずか二百人(四百人とも)だったという。
浜松城に逃げ帰った家康は、城門を開き(そうしないと徳川軍の兵が収容できない)、かがり火をたかせた。いわゆる「空城の計」を行ったと言われる。家康は湯漬けをかきこむと、いびきをかいて寝てしまったという。家康の大胆さというよりは、破れかぶれといった感である。武田軍も浜松城攻めに時間を費やすことはせず、さらに西へと向かった。
三方ヶ原の戦いは家康唯一の負け戦、という言い方もされる。しかし、あまり知られていないが家康は三河一向一揆との戦いで苦戦しており、秀吉との小牧長久手の戦いでも最終的には屈服を余儀なくされている。戦に勝っても政治で負ければそれは負けなのである。三方ヶ原以外常勝だったということはない。
戦後、馬場美濃守は信玄に報告している。「徳川軍の死体を見ると、北に向かったものはみなうつ伏せ、南に向かったものはみなあお向けになっている。いずれも討ち死にしたもので、逃げた兵は一人も見当たらない。さすがは三河武士だ」と、これは後世の脚色だろうが、徳川軍が寡兵ながら勇猛果敢に戦ったことは事実である。そして家康自身、「あの信玄と戦った」という経験は貴重な財産となった。
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