兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「戦国人物紹介」
■武田信玄3
上杉謙信との戦いを終えて信濃を確保した信玄だが、これで北は行き止まりとなった。残るは謙信の絶対国防圏である越後である。ここで信玄は一転して南に目を向けることになる。信玄は駿河・遠江を領す今川家、関東の北条家と三国同盟を結んでいたが、今川家は1560年に義元が桶狭間で戦死すると、子氏真の代となっていた。しかし氏真は文弱の暗君とされ、三河の家康の攻撃にさらされていた。
今川領に狙いを定めた信玄は、まず長男義信(義元の娘を正室としていた)ら親駿河派を粛清して家中の意見を統一する。また家康と密約を結んで今川領を分け取りにすることにした。このことは家康の背後にいる信長とつながりを持つことにもなった。武田家と織田家は終始敵対関係にあったわけではない。
1568年、信玄は今川家との三国同盟を破棄して駿河に侵攻を開始、事前の調略が効を奏し、さしたる戦いもないまま駿府を占領する。この駿河攻めに黙っていなかったのが、三国同盟を結んでいた北条氏康である。仇敵である謙信と電撃的に越相同盟(越後と相模)を締結すると、今川救援の軍を発する。信玄は北条軍に苦しむもなんとか駿河を制圧。さらに家康との密約を破棄して遠江にも侵攻を開始する。
1571年、北条氏康が死去すると、子の氏政は氏康の遺言に従って信玄と和睦。背後の憂いを断った信玄は西上作戦(この段階で上洛を企図したものかは諸説ある)を開始。1572年、三方ヶ原の戦いで家康を一蹴する。しかし、翌年三河野田城攻めの最中に発病し、甲斐への帰国を開始するが、帰途、信濃伊那の駒場(こまんば)で死去した。
前回の諏訪家(義理の兄弟)も含めて、信玄にとって同盟などは一時の方便にすぎず、敵(今川)の敵(徳川)だから、いまだけ仲良くしておけって感じですが、結ぶ方(徳川)もその次は自分というのをわかっていて、信玄と手を結んで勢力を拡大するわけですから、信玄だけを責めることはできません。
■武田信玄3
上杉謙信との戦いを終えて信濃を確保した信玄だが、これで北は行き止まりとなった。残るは謙信の絶対国防圏である越後である。ここで信玄は一転して南に目を向けることになる。信玄は駿河・遠江を領す今川家、関東の北条家と三国同盟を結んでいたが、今川家は1560年に義元が桶狭間で戦死すると、子氏真の代となっていた。しかし氏真は文弱の暗君とされ、三河の家康の攻撃にさらされていた。
今川領に狙いを定めた信玄は、まず長男義信(義元の娘を正室としていた)ら親駿河派を粛清して家中の意見を統一する。また家康と密約を結んで今川領を分け取りにすることにした。このことは家康の背後にいる信長とつながりを持つことにもなった。武田家と織田家は終始敵対関係にあったわけではない。
1568年、信玄は今川家との三国同盟を破棄して駿河に侵攻を開始、事前の調略が効を奏し、さしたる戦いもないまま駿府を占領する。この駿河攻めに黙っていなかったのが、三国同盟を結んでいた北条氏康である。仇敵である謙信と電撃的に越相同盟(越後と相模)を締結すると、今川救援の軍を発する。信玄は北条軍に苦しむもなんとか駿河を制圧。さらに家康との密約を破棄して遠江にも侵攻を開始する。
1571年、北条氏康が死去すると、子の氏政は氏康の遺言に従って信玄と和睦。背後の憂いを断った信玄は西上作戦(この段階で上洛を企図したものかは諸説ある)を開始。1572年、三方ヶ原の戦いで家康を一蹴する。しかし、翌年三河野田城攻めの最中に発病し、甲斐への帰国を開始するが、帰途、信濃伊那の駒場(こまんば)で死去した。
前回の諏訪家(義理の兄弟)も含めて、信玄にとって同盟などは一時の方便にすぎず、敵(今川)の敵(徳川)だから、いまだけ仲良くしておけって感じですが、結ぶ方(徳川)もその次は自分というのをわかっていて、信玄と手を結んで勢力を拡大するわけですから、信玄だけを責めることはできません。
PR