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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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■関東足利家(上)

 1338年、征夷大将軍となった足利尊氏だが、当時は南北朝の戦いの最中であり、幕府自体も有力守護の連合体的性格を有しており、とても全国を治める力はなかった。尊氏は関東統治のために鎌倉府を置き、四男の基氏を長官(鎌倉公方)とした。基氏の曾孫持氏は関東管領上杉禅秀(氏憲)の反乱を鎮めるも、将軍位をめぐって足利義教(六代将軍)と対立、義教の追討を受けて自殺した(永享の乱、1438-39年)。ついで持氏の遺児春王丸と安王丸を擁して結城氏朝が挙兵したが、関東管領上杉憲実(山内上杉氏)と幕府の連合軍に敗れて斬られた(結城合戦、1440-41年)。
 のち嘉吉の乱で将軍義教が殺されたため、持氏の子成氏(しげうじ)は許されて鎌倉公方となるが、関東管領上杉憲忠(憲実の子)と対立、1454年、成氏は憲忠を殺し、1455年には分倍河原で上杉房顕を破った。しかし、足利義政(八代将軍)の追討を受け、駿河の今川範忠に攻撃されると下総古河に拠った。以後、これを古河公方と称す。
 一方、上杉氏は古河公方成氏と対抗するために、義政の弟政知を迎えるが、依然成氏の勢力が強かったために鎌倉には入れず、伊豆堀越に留まったため、堀越公方と呼ばれた(1457年)。関東地方の諸勢力の多くを従える成氏方と、堀越公方・上杉氏は互いに争うが、堀越公方側は中央で応仁の乱が起こると、幕府側の支援がほとんど得られなくなり、一進一退の攻防が続いた。三十年近く戦いが続くが、1482年(あるいは1483年)、ようやく古河公方と堀越公方の間で和議が成立する。古河公方の誕生からこれまでを享徳の乱という。
 この頃から北条早雲が台頭してくる。伊豆一国を治めていた堀越公方の政知が1491年に死去すると、家督をめぐって足利茶々丸と弟潤童子が対立、茶々丸は弟を殺して家督を継ぐが、早雲に敗れて自殺し、堀越公方は滅んだ。
 1497年の成氏の死後、古河公方となった政氏は上杉氏と組んで早雲と戦おうとするが、その子高基と対立、古河を出て関東を転々とするが、武蔵久喜で隠居する。高基の子晴氏は叔父義明(小弓御所という)が里見氏と組んで勢力を伸ばすことを恐れ、北条氏の支援を求める。1538年の第一次国府台の戦いでは北条氏綱・足利晴氏連合軍が里見義堯・小弓御所連合軍を破り、足利義明を敗死させる。晴氏は氏綱の娘を嫁に迎え、古河公方の勢力回復を図るが、次第に両者の関係は冷めていき、河越合戦では上杉氏に味方する。
 晴氏の子で北条氏の血を引く義氏は北条氏康の庇護を受けるが、嗣子のないまま死去し、古河公方は断絶してしまう。
 しかし、秀吉は名家の断絶を惜しみ、義氏の娘氏姫(鴻巣御所、1574-1620)に小弓御所義明の孫国朝(下野喜連川に拠り喜連川氏を称した)を配し、家名の復興をさせた。国朝が死去すると、氏姫は国朝の弟頼氏に再嫁した。江戸時代には五千石を与えられたが、十万石並みの待遇を与えられ、明治に至った。維新後は足利氏に復し、子爵となった。

足利尊氏-基氏-氏満-満兼-持氏-成氏-政氏-高基-晴氏-義氏-氏姫(鴻巣御所)
 
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