兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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高校野球が始まりましたが、野球にしろ、サッカーにしろ、合戦にしろ、限られた戦力をいかに効率よく運用するか、というところに戦術やセオリー(理論)が発生する余地があります。また、目には見えづらいのですが、流れや勢い、といったものも存在します。
「戦国人物紹介」
■武田信玄2
武田家の家督を継いだ信玄は狙いを信濃諏訪に定める。そこには妹禰々御料人(ねねごりょうにん)が嫁いでいた諏訪頼重がおり、同盟関係にあったが、信玄は頼重を攻めるとこれを捕らえてやがては殺してしまう。さらに頼重の娘(諏訪御料人)が美貌と知ると側室にしてしまう。滅亡した敵方の娘を側室にすることに家臣も眉をひそめたという。諏訪御料人との間にもうけたのが諏訪四郎、のちの武田勝頼であり、武田家の実質的な最後の当主である。頼重の怨念が武田家にたたったとも言われる。
諏訪攻め後、信濃攻めを続けた信玄だが、1548年、上田原の戦いで村上義清に大敗し、板垣信方、甘利虎泰らを失う。義清に呼応して小笠原長時が挙兵するが、これを塩尻峠の戦いで破ると、南信濃の小笠原領を制圧して形勢を挽回する。しかし、1550年に義清に再度敗れる。信玄は砥石城(戸石城)を包囲したが、義清は降伏した武将に化けて武田軍の中に紛れ込み、機を見て蜂起、混乱する武田軍は散々に敗れた(戸石崩れ)。信玄が生涯で敗れたのは対村上義清戦の二度だけと言われる。その後、真田幸隆の調略によって村上家を内部から切り崩し、戸石城を陥落させることに成功する。
信濃から小笠原長時、村上義清などを追うが、彼らは越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったため、謙信との対決を招くことになる。世に言う川中島の戦いであるが、通説では1553年から1564年までの十二年間で五度戦ったことになっている。もっとも有名なのが両雄の一騎討ちで知られる1561年の第四回の戦いで、別に八幡原の戦いとも言われる。

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どういうイメージなんだろ・・・。
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■武田信玄2
武田家の家督を継いだ信玄は狙いを信濃諏訪に定める。そこには妹禰々御料人(ねねごりょうにん)が嫁いでいた諏訪頼重がおり、同盟関係にあったが、信玄は頼重を攻めるとこれを捕らえてやがては殺してしまう。さらに頼重の娘(諏訪御料人)が美貌と知ると側室にしてしまう。滅亡した敵方の娘を側室にすることに家臣も眉をひそめたという。諏訪御料人との間にもうけたのが諏訪四郎、のちの武田勝頼であり、武田家の実質的な最後の当主である。頼重の怨念が武田家にたたったとも言われる。
諏訪攻め後、信濃攻めを続けた信玄だが、1548年、上田原の戦いで村上義清に大敗し、板垣信方、甘利虎泰らを失う。義清に呼応して小笠原長時が挙兵するが、これを塩尻峠の戦いで破ると、南信濃の小笠原領を制圧して形勢を挽回する。しかし、1550年に義清に再度敗れる。信玄は砥石城(戸石城)を包囲したが、義清は降伏した武将に化けて武田軍の中に紛れ込み、機を見て蜂起、混乱する武田軍は散々に敗れた(戸石崩れ)。信玄が生涯で敗れたのは対村上義清戦の二度だけと言われる。その後、真田幸隆の調略によって村上家を内部から切り崩し、戸石城を陥落させることに成功する。
信濃から小笠原長時、村上義清などを追うが、彼らは越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったため、謙信との対決を招くことになる。世に言う川中島の戦いであるが、通説では1553年から1564年までの十二年間で五度戦ったことになっている。もっとも有名なのが両雄の一騎討ちで知られる1561年の第四回の戦いで、別に八幡原の戦いとも言われる。
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どういうイメージなんだろ・・・。
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