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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■武田二十四将5

1541年の信虎追放のクーデターの陰の主役となった人々。甘利、板垣は武田家臣の最高位である「両職」を務めたとされます。信玄にとっては頭の上がらない「恩人」ですが、逆に言うと信玄の権力を制限する可能性のあった人々でもあります。甘利、板垣が村上義清との戦いで戦死すると、子孫は二人ほど重用されずに終わります。

・甘利虎泰 【あまりとらやす】 ?-1548
備前守。甲斐巨摩郡甘利郷の領主。譜代家老衆。甘利氏は武田信義の子一条忠頼の子甘利行忠を祖とする。武勇で知られたが、1548年、村上義清との上田原の戦いで戦死。
子の昌忠(左衛門尉)が継いで譜代家老衆百騎持ちとなるが、1564年に落馬して死去したという。昌忠の弟信康が継いだが、1575年の長篠の戦いで戦死した。

・板垣信方 【いたがきのぶかた】 1485-1548
信形とも。駿河守。板垣氏は武田信義の子板垣兼信を祖とする。信玄の傅役(もりやく)。
甘利虎泰とともに信虎追放の立役者となり、以後も若い信玄を補佐する。信濃諏訪氏を破ると諏訪郡代となり上原城代を務めたが、1548年、村上義清との上田原の戦いで戦死、若い信玄を嘆かせた。
子信憲が継いで父と同じ「両職」についたというが、不行跡により蟄居させられて殺された。このため板垣家は一時断絶する。のち信憲の子が乾(いぬい)正信を称して山内一豊に仕える。主君とともに土佐に移った正信の子孫が乾退助こと板垣退助である。



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信玄を擁立、傀儡にする可能性もあったが、戦死。子は殺されて板垣家は消されたが、子孫に板垣退助が出る。

・飯富虎昌 【おぶとらまさ】 1504?-65
兵部少輔。飯富兵部(ひょうぶ)と言えばこの人。山県昌景(飯富源四郎)の兄で赤備え(あかぞなえ)の創始者としても知られる。
信虎・信玄の二代に仕えた譜代家老衆。合戦では常に先陣を務めたといわれ、川中島の戦いでも妻女山への別働隊の主力となっている。信玄の嫡子義信の傅役となるまで重用されたが、1565年、義信に謀反の嫌疑がかけられると責任を取って自害し、飯富家は断絶した。この事件については諸説あるが、信玄の駿河侵攻を前に親駿河派を粛清したとの見方が多い。
赤備えは彼の死後、弟の山県昌景に、そしてのちに徳川家臣の井伊直政や武田家旧臣である真田昌幸の子幸村に受け継がれていく。



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ちなみに赤備えにもいくつか種類があるのをご存じだろうか。

赤備えというと濃い目の赤が多いのだが、大坂の陣の幸村の赤備えは鮮やかな真紅だったという。
 
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