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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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ちょっと歩いただけですぐ筋肉痛になったり、二日続けて二日酔いになったりしたので、今週はパワーがありません。でも、明日は会社でプレゼンの日なので、好き勝手しゃべり倒してやろうと思います。

「戦国セブン」とのコラボ企画で、「熱血三国」もやると、「戦国セブン」で礼券50がもらえるとのこと(礼券が当たる6月末まで続けているかどうか不安がありますが)。しかも、キャンペーン初日に新鯖がオープンするというナイスな設定。やるしかない。っていうか、初心者保護期間が終わったら、すぐに叩き潰されてうぇぇぇぇんになること必至なので、まあ、登録だけしてみようか、という軽い気分でのプレイです。君○やっているときに、「パン○」もやったら、KPが増えるとかあったっけ。なかったよなあ。いろいろプレイさせてみると、いい点がわかったり、改善すべき点が見えてきたりするので、試みとしてはいいと思います。

「戦国人物紹介」

■北条一門

 大名が優秀だったせいなのか、官僚制の弊害なのかはわからないが、一門以外にこれといった有名人がいないのが北条氏の特徴。好きな武将がいる人はどんどん紹介しましょう。

・北条幻庵 【ほうじょうげんあん】 1493-1589
 菊寿丸、長綱、幻庵宗哲。北条早雲の三男。箱根権現の第四十世別当。若いころには京の三井寺で修行している。生年には異説もあるが、初代早雲の子として生まれ、北条氏滅亡の前年に没する、北条五代に仕えた一族の長老。
 1562年、吉良氏朝(武蔵世田谷吉良氏)に嫁ぐ氏康の娘に「幻庵おほえ書(覚書)」という礼儀作法の心得を持たせたことで知られる。そのほか連歌や尺八、造園、鞍作りなどに巧みであり文人としても名高い。
 実戦経験もあり、家中では最大の知行を有したのだが、コーエーの「信長の野望」シリーズでは武力が一桁しかない作品もあり、上杉謙信の騎馬突撃をくらったら一撃で「蒸発」してしまうくらいの弱さで有名。坊主フェチ、じじいフェチにも人気が高いだろう。
 
・北条氏照 【ほうじょううじてる】 1540-90
 源三、陸奥守。氏康の二男。1559年、武蔵滝山城主大石定久の娘をめとり、定久の養子となって大石氏を称した。1568年には古河公方側を攻めて下総栗橋城を落とす。
 1569年に信玄が攻め寄せると滝山城も攻撃を受ける。また退却する武田軍の追撃に当たるが、三増峠の戦いで敗れる。滝山城攻めを受けてのちに八王子に城を築いて移っている。1575年、下野小山の小山秀綱と戦い、小山城(祇園城)を落とす。
 1582年、本能寺の変で信長が死去すると織田領に侵攻して北条氏の版図を拡大する。秀吉の小田原攻めでは徹底抗戦を主張。八王子城には家臣を置き、自らは小田原城に籠城するが敗れる。主戦派と見なされたため、戦後、氏政とともに切腹させられた。
 北条氏の勢力を北関東に拡大した武闘派の印象が強いが、上杉氏との越相同盟成立に尽力し、信長とも接触するなど外交面での功績もある。

・北条氏規 【ほうじょううじのり】 1545-1600
 助五郎、美濃守。氏康の四男。幼いころ今川家の人質となり、同じ人質であった家康と親交を持ったという。この縁が彼自身の命を救い、北条の家名を残すことにもなるのだから、人生何がどう影響するかわからない。おもに外交を担当し、秀吉や家康との折衝に当たった。小田原攻めでは伊豆韮山城に籠城するが、家康の説得により降伏。小田原に赴いて和平を勧告した。戦後は氏直に従って高野山に赴く。のち秀吉から河内国内で所領を与えられる。
 1600年、二月に死去。子の氏盛は遺領を安堵され、子孫は河内狭山の大名として存続した。
 
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魁皇の1000勝には感動した!
横綱白鵬は強いね。

優駿牝馬(オークス)のGⅠ史上初の1着同着も感動しました。
差されてまた差し返す(結果は同着)というのはひさしぶりに見ました。

■河越夜戦(1546年)

 北条氏の二代目氏綱は扇谷上杉氏の江戸城、河越(川越)城を攻略して関東南部へと勢力を拡げていた。後を継いだのが三代目の氏康である。
 一方、北条氏に圧迫されていた山内・扇谷の両上杉氏もようやく結束し、関東管領山内上杉憲政は各地の勢力を糾合して北条包囲網を築いた。甲斐の武田信玄、駿河の今川義元がこれに呼応し、北条領であった駿河東部をおびやかすとともに、憲政自身も扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏とともに出陣する。旧体制のオールスターとでも言うべき面々である。憲政の呼びかけにより集まった軍勢は八万とも言われ、元は扇谷上杉氏の居城であった武蔵河越城を包囲した。
 対する河越城の守将北条綱成はわずか三千の兵で城を守りつつ、氏康に救援を仰いだ。駿河で義元と対陣中であった氏康は駿河割譲を条件に義元、信玄と和睦。八千の兵を率いて河越城の救援に向かった。
 氏康は河越周辺に到着すると、偽りの降伏を申し出るなど和睦交渉を行い、日中に攻撃を受けても戦うことは避けた。夜間の奇襲にすべてをかけたのである。北条軍の態度に油断していた連合軍は夜襲で総崩れとなり、上杉朝定ほか多くの将兵が戦死、上杉憲政、足利晴氏はかろうじて戦場を脱出したが、両家とも急速に衰退していく。
 この奇跡的な勝利により、北条氏は関東における優位を確立するが、敗れた上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったために、氏康と謙信が戦うことにもつながった。

 さて、河越夜戦は「日本三大夜戦」の一つとされるが、他の二つが明確でない。厳島の戦い、桶狭間の戦いを挙げる人もいるが、厳島の戦い(早朝)、桶狭間の戦い(昼過ぎ)とも夜戦ではない。また「日本三大奇襲」という言い方もあるようだが、桶狭間の戦いは奇襲ではなく(迂回奇襲でも正面奇襲でもない)、正面攻撃が正しいから、これも適切でない。太平洋戦争の日本軍もよく夜襲をしたが、夜間戦闘は敵味方の区別が難しいなど、兵の統制が困難であるため、行われることは少ない。
 
「戦国人物紹介」

005 北条綱成 
【ほうじょうつなしげ】 1515-87

 勝千代、左衛門大夫。一般に父は今川家臣の福島(くしま)正成と言われる。正成は今川氏輝の死後、義元の異母兄玄広恵探を擁立して梅岳承芳(義元)と家督を争ったが敗れ、甲斐に逃れたが武田信虎に殺されたとされる。その後、綱成は北条氏綱のもとに身を寄せて北条姓を与えられたというが、異説もある。
 ともかく、氏綱は綱成を気に入り、娘を嫁がせるとともに、北条姓を与える。「綱成」の名も氏綱の「綱」と正成の「成」を取って合わせたものである。綱成は氏綱の子為昌の後見役となり、為昌の死後は相模玉縄城主を継いだ。
 河越夜戦では半年にわたる籠城戦を耐え抜いて北条氏に勝利をもたらす。
 武勇目覚ましく、黄色い布に八幡大菩薩と書いた旗をひるがえして戦う姿から、「地黄八幡」と称えられる。のち第一線からは退き、氏康の名代として外交に活躍する。

 1571年、綱成の守る駿河深沢城を信玄が攻撃、綱成は開城して退却したが、あとには「地黄八幡」の旗が残されていた。信玄は旗を見ると「旗を捨てたのは旗持ちの責任であるから、綱成を笑ってはならぬ」と言い、真田幸隆の子信綱(昌幸の兄)に「綱成の武勇にあやかれ」とその旗を与えたという。
 同年、氏康が死去すると、綱成も出家して上総入道道感と名乗り、家督を子の氏繁に譲って隠居した。
 氏繁は父に先立って死去し、氏繁の二男氏勝が家督を継ぐ。氏勝は秀吉の小田原攻めで伊豆山中城を守るが落城、玉縄城に退くが降伏した。のち家康に従い下総岩富で一万石を与えられる。子孫は無嗣により断絶。

 「信長の野望・戦国群雄伝」では軍師も務められる良将という感じだったが、シリーズを経るにつれて次第に戦争向きの能力評価になった。



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たしかに、老人の黄色を帯びた白髪のことを「黄髪」とは言いますが、まだ若そうw
 
■関東三国志

 いずれもが天下を取ってもおかしくない三人の英傑が互いに争った、戦国時代でももっとも人気の高い時期の一つである。
 1541年、北条氏二代の氏綱が死去すると、氏康が後を継ぐ。
 同年、甲斐でも武田信虎が追放され、晴信(のちの信玄)が家督を継いだ。
 1548年、越後では長尾景虎が仏門から還俗して長尾家の当主となった。
 こうして、相模の獅子、甲斐の虎、越後の龍、とも称される関東の三傑がそろう。三者は時に戦い、時に和しながら勢力を拡大していく。

004 北条氏康 【ほうじょううじやす】 1515-71

 相模の獅子。「虎」の印判を使っていたから、「相模の虎」の方がいいのだろうけど、「虎」は甲斐にいるしね。ということで、獅子になったようです。
 三代続いたが、次が育たなかったのが減点。トップが凡庸でも組織が続くように官僚機構を整えたのだが、秀吉にはかなわず。まあ、信玄も謙信も落とせなかった小田原城を落とした秀吉の方をほめるべきか。

 新九郎、相模守、左京大夫。
 1546年の河越夜戦で上杉朝定を破って扇谷上杉氏を滅ぼし、ついで山内上杉憲政を越後に追って上野(こうずけ、いまの群馬県)南部まで勢力を拡大。古河公方足利義氏を庇護して、旧勢力を関東からほぼ一掃するか支配下に置いた。
 1554年には駿河へ進出し、駿河の今川義元、甲斐の武田晴信(信玄)と対峙するが、三者は太原雪斎のあっせんにより善徳寺で会見し、晴信の娘を氏康の子氏政に、氏康の娘を義元の子氏真に嫁がせることで講和した(先に、義元の娘が晴信の子義信に嫁いでいた)。これにより三国同盟が成立し、西方の脅威が取り除かれた。
 1560年、長尾景虎が関東に出陣、十万余の大軍を率いて小田原城に迫った。しかし、氏康は一ヶ月半に及ぶ籠城戦を戦い抜き、景虎を撤退させる。景虎は帰途、鎌倉に入って鶴岡八幡宮前で関東管領の就任式を行った。
 1568年、信玄が三国同盟を破って駿河に侵攻すると、敵対していた謙信と越相同盟を結んで信玄に対抗する。武田軍が小田原城下に攻め寄せるもこれを退け、逆に追撃戦を展開するが、これは信玄に見破られて成功せず(1569年、三増峠の戦い)
 信玄とは敵対したまま、1571年に没するが、子の氏政には信玄と和睦するよう遺言し、氏政もそれに従った。

 税制改革、使用通貨の統一、検地の実施、支城網の整備などを行い領内の支配を強化する。和歌にも優れた文武両道の名将である。

 武田信玄と上杉謙信、両雄の攻撃を受けながら、巧みに直接対決を回避し、勢力を拡大していった真の戦巧者かもしれません。ただ、次がね。次が。




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謙信、信玄の攻勢をしのいだためか、防御が高い。
 
■関東足利家(下)

気になるこの人 鴻巣御所 【こうのすごしょ】 1574-1620

 足利氏姫(氏女)とも呼ばれるが、古河公方足利氏の通字である「氏」の名を付けて呼んでいるだけで、実名は不詳である。また鴻巣は住んだ場所の名前、御所は邸宅から転じた敬称である。
 父義氏はすでに名目だけの古河公方であり、北条氏の庇護のもとにあった。1583年に義氏が死去すると、嫡男は早世していたため、家臣らにより古河城主とされる(正式に家督を継いだかは不明)
 1590年、秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅ぶと、古河城は破却され、鴻巣(古河市)に移る。翌年、名家の断絶を惜しんだ秀吉の命により、かつて敵対していた小弓御所足利義明の孫足利(喜連川)国朝(1572-93)に嫁いだ。これにより両家は約七十年ぶりに統一されたことになる。国朝は下野喜連川三千五百石を与えられたが、氏姫は鴻巣に残った。
 1593年、夫国朝は朝鮮出兵の途上、安芸で死去したため、今度は国朝の弟頼氏に嫁ぐ。1599年には二人の間に義親が生まれている。足利(喜連川)氏は関ヶ原の戦い以後も存続するが、氏姫は変わらず鴻巣御所に住み続けた。徳川幕府による喜連川藩成立を認めようとせず、子の義親も喜連川に行くことはなかった。
 北条氏が滅んだときには17歳くらい。上臈(じょうろう、身分の高い女性)好きの秀吉なら手を出してもおかしくないと思うのだが、そういう話は聞かないどころか婿の世話までしている。
 
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