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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「ケータイ音楽のカリスマ」らしいですが、2ndアルバム発売です。なかなかよさげ。

http://ameblo.jp/nishino-kana/



サッカーの監督に限らず、政治家でも、人の上に立つ人ってのは、判断して決断しないとならない。

そして、今日ようやく確認した、日本の第3戦の日程。金曜の午前3時って、寝てるじゃん!

早く寝て、起きて観て、また寝ろってことですかね。

録画して5時から7時まで観るということは、以前別の大会の時にやったことがありますが・・・。

LIVEで観たい。観ます。


「戦国人物紹介」

008 蘆名盛氏 【あしなもりうじ】 1521-80

 蘆名氏(葦名、芦名とも書く)は鎌倉時代に繁栄した三浦氏の一族、佐原氏の流れを汲む桓武平氏の名門。会津を支配するようになったのは南北朝期以後という。
 盛氏はその蘆名氏の中興の祖である。四郎丸、平四郎、修理大夫。
 伊達氏の内乱(天文の大乱)の隙に勢力を拡大し、二本松、田村、二階堂ら諸氏を服属させた。のちには武田・北条と結んで北越後にも出陣したり、常陸の佐竹氏と戦ったりするなど、蘆名氏を伊達氏と並ぶ東北の一大勢力とした。
 しかし、盛氏の嫡男盛興は酒毒のために盛氏に先だって早世し、二階堂氏から養子に入った盛隆は家臣に殺され、盛隆の遺児亀王丸もわずか三歳で病死する。亀王丸の跡を佐竹義重の二男義広が継ぐか、伊達政宗の弟竺丸が継ぐかで家臣間に争いがあったが、結局は義広が継ぐことになる。これにより伊達氏との対立を招き、家臣の猪苗代盛国は政宗に内応、要衝猪苗代城を明け渡してしまう。蘆名氏は会津に侵攻した伊達政宗と摺上原(すりあげはら)での決戦を迎える。
 家臣富田将監隆実は先陣として奮戦、裏切り者の猪苗代盛国を破り、片倉景綱の陣も破るが、戦場の風向きが向かい風に変わると味方は潰走。この戦いに惨敗した義広は隆実ら家臣と常陸に落ち延び、蘆名氏は事実上滅亡した(1589年)。
 秀吉の奥州仕置で政宗の会津領は没収される。義広は会津への復帰を画策するが果たせず、会津は蒲生氏郷に与えられた(のち上杉景勝)。義広は秀吉から常陸江戸崎に四万五千石を与えられるが、関ヶ原の戦い後に兄佐竹義宣が出羽秋田へ転封されると、義広も秋田角館へ移った。

甲斐武田氏に行く前に、一回はさみます。
 


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隠居したときに、剃髪して止々斎と名乗っているから、これでいいのかw
 
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「戦国人物紹介」

007 佐竹義重
 【さたけよししげ】 1547-1612

 さあ、鬼義重の登場、なのですが、当時の佐竹氏は約百年の衰退期を克服して、常陸のみならず周辺に勢力を拡大した結果、西からは北条氏、北からは伊達氏の侵攻を受けるという苦しい立場にもありました。もちろん、周辺の大名と連合して、北条氏、伊達氏と渡り合ったという見方もできますが。

 徳寿丸、次郎。常陸介。北条氏との戦いでは一瞬で七人の敵を切り捨てたと言われ、「鬼義重」「坂東太郎」などと勇名を謳われた。

 十代で家督を継ぐ。常陸国内の小田氏を攻めてのちに服属させる。1571年、北条氏が蘆名盛氏、結城晴朝らとともに多賀谷氏(結城家臣だが佐竹氏寄り)を攻めると、援軍を送って撃退している。1575年には白河結城氏の白河城を落とし、陸奥南部にも精力を拡大する。宇都宮氏、結城氏と同盟して北条氏に対抗し、また信長や秀吉に使者を送るなど中央との関係も深めるが、1585年に北条氏に下野長沼城を奪われ、和睦を余儀なくされた。


 以後は伊達政宗との戦いに明け暮れる。同じ1585年には蘆名氏や二階堂氏ら奥州の勢力を糾合して反伊達連合三万の兵を集め政宗との決戦をもくろむ。一方、政宗も七千の兵でこれを迎え撃つ。両軍は人取橋(ひととりばし)で激突するが、兵力にまさる連合軍が終始押し気味に戦いを進める。伊達軍は政宗自ら槍を取って戦い、老将鬼庭左月斎良直が撤退の際の殿を務めて討ち死にするなど苦戦を強いられる。しかし、常陸に里見氏が侵入したとの報せが入り、陣中で武将が殺されるなどの混乱もあり、義重は撤退を決意。政宗は九死に一生を得る。
 1587年には二男義広を強引に蘆名盛隆の婿として蘆名家を継がせ、蘆名盛重と名乗らせる。しかし、1589年に摺上原(すりあげはら)の戦いで、蘆名軍は伊達軍に敗れ、盛重は常陸に落ち延び、ここに蘆名氏は事実上滅びた。

 同年に隠居して子の義宣に家督を譲るが、1590年の小田原攻めでは佐竹氏はいち早く秀吉に従う。常陸太田城を居城とし、五十四万石を領し、豊臣政権下の有力大名となることに成功する。秀吉からは関東に入った家康への抑えとして期待され、厚遇された。
 関ヶ原の戦いでは石田三成との親交があった子の義宣と対立、どちらの陣営にも積極的に属さなかったことから、戦後、所領を出羽秋田(久保田)二十万石に移された。
 三成との親交については、検地の際に実収八十万石余の石高を五十四万石に「まけてもらった」恩義があったという。その分、軍事の負担が減るわけである。子の義宣は西軍につこうとするも、義重や重臣は反対。結局、佐竹氏は中立的立場を取るのだが、家康にしてみれば、江戸の近くに佐竹氏のような勢力がいては目の上のたんこぶである。取り潰しにはしなかったものの、体よく追い払ってしまった。
 幕末は奥羽越列藩同盟に参加するも、新政府側に転じたため、同盟からの集中攻撃を受け、領地の三分の二が戦場となった。維新後は侯爵。なお、秋田県知事の佐竹敬久は佐竹氏の一族である(義舜の弟の系統)

 「鬼義重」として有名なのだが、対北条にしろ、対伊達にしろ、単独では対抗できず、外交力を駆使して連合軍を組織するも、連合軍ゆえの足並みの乱れもあり、勝利を収めることはできなかった。関ヶ原の戦いでも義重や重臣は家康よりだったが、子の義宣は三成方に味方しようとし、結局は中立的な立場に終始したために、秋田への減転封を余儀なくされた。このあたりに地方大名としての義重の能力の限界を見るのだが。



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額の前立が桃に見えますが(桃太郎?)、正しくは佐竹氏の家紋、「五本骨扇に月丸」です。
 
「戦国人物紹介」

■常陸の名門・佐竹氏

 戦国大名の出自は様々である。鎌倉、室町時代からの守護大名がそのまま戦国大名となる例(今川、島津、大友、伊達、武田、赤松、山名、大内など)、守護が所領の管理のために派遣した守護代が戦国大名となる例(斯波氏の守護代である朝倉、織田、越後上杉氏の守護代である長尾、赤松氏の守護代である浦上、京極氏の守護代である尼子など)、また地方の豪族から戦国大名となる例なども多い。

 佐竹氏は清和源氏である源義光が常陸国久慈郡佐竹郷を与えられ、その子義業(あるいは義業の子昌義)が佐竹氏を称したのが始まりという。先祖をさかのぼれば源義光(新羅三郎)にたどりつくというのは武田氏、小笠原氏、南部氏などと同じである。なお、源義光の長兄が八幡太郎として勇名を謳われた源義家である。
 源平合戦では清和源氏にもかかわらず平氏に味方したため、源頼朝により常陸の所領を没収されているが、のちに奥州藤原氏攻めに加わって旧領を回復している。先祖が平氏でも頼朝に味方した武士も大勢いるから、源氏である佐竹氏が中央の政権である平氏に味方したとしても何ら不思議ではない。常陸国内の対立勢力が頼朝側なら、対抗上平氏に味方することもあろう(もともと、平氏は一族の仲がいいが、源氏は仲が悪いと言われる)

 南北朝時代には足利尊氏に従い常陸守護に任じられ、鎌倉府ができると関東八屋形の一家とされた。しかし義盛の代に男子がなく、関東管領(山内)上杉憲定の子義憲(義人、義仁)を婿養子に迎えるが、一族の山入氏らが反対するなど、家督継承には混乱が見られ、勢力も後退した。
 1490年、佐竹義舜は山入義藤・氏義父子に太田城を追われるが、1504年に岩城常隆(先代)の支援を受けて太田城を奪い返し、二年後には山入氏を滅ぼして常陸国内での勢力回復を図った。
 佐竹義昭は江戸忠通を破り、1557年には宇都宮広綱を助けて宇都宮城に復帰させる。さらに結城氏とも戦い、のちに上杉謙信と結んで小田氏を攻めるなど、積極的に活動する。

義人(義仁)-義俊-義治-義舜-義篤-義昭-義重-義宣(出羽秋田藩)
 
ワールドカップ開幕!

世界最高峰のプレーを毎日2試合ずつ見られるなんて、しあわせですが、寝不足必至w

にしても、アルゼンチンはうまいなw


「戦国人物紹介」

006 里見義堯 【さとみよしたか】 1507-74

 ゲームでは、強大な北条氏に挑むのがおもしろい、と里見家を選択するマゾプレイヤーも少なからずいるのですが、里見家の当主となると、どうも名前が出てこない・・・。
 ほかにも曲亭(滝沢)馬琴の『南総里見八犬伝』の影響もあってかマニアックな人気があるよね、里見家って。私も「信長の野望・覇王伝」で里見家を選択したことがあります。
 
 清和源氏新田氏の子孫を名乗る義実が安房に定着したのが始まりというが不詳。その後上総まで進出する。
 義堯は甥の義豊(兄義通の子)と家督を争い、北条氏綱に援助を求めるが、のちに北条氏と敵対。小弓御所足利義明と組んで北条氏綱と争うが、1538年、第一次国府台の戦いで敗れる。しかしその後も海上から北条攻めを繰り返した。
 子義弘も上杉謙信と同盟を組んで北条氏と争うが、1564年の第二次国府台の戦いで北条氏康に敗れる。北条氏の勢力拡大により、上総南部と安房を領するだけになる。
 孫義康のときに秀吉の小田原攻めがあり、秀吉方に参陣するが、遅参をとがめられて上総を没収され、安房一国のみ安堵される。関ヶ原の戦いでは東軍に属して所領を安堵される。
 子忠義は二代将軍秀忠の前で元服し一字を賜るが、妻の祖父である大久保忠隣の失脚に連座し、伯耆倉吉に配流となる。忠義は嗣子のないまま没し、里見氏は断絶した。

 幕府にとっては江戸に近いところに譜代ではない大名がいるということで、いずれ排除対象になる可能性が高かったのでしょう。一方、里見氏も幕府内で権勢を誇る大久保一族に組みこまれることで命脈を保とうとしたのですが、これが裏目に出ます。なお、忠義が伯耆で没したときに家臣八人が殉死していますが、これが『南総里見八犬伝』の八賢士のモデルと言われます。

 義堯は父の仇である甥義豊を殺して里見氏の家督を継いだためか、「信長の野望・天翔記」では暗殺の技能があって、関東で勢力を拡大する際には風魔小太郎とのダブル暗殺で役に立ったものです。

実堯-義堯-義弘-義頼-義康-忠康



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1562年に出家、号は岱叟院正五。
 
「戦国人物紹介」

武田、上杉両家に比べるとマイナーな感もある北条家臣。取り上げてみましょう。

・大道寺政繁 
【だいどうじまさしげ】 1533-90
 孫九郎、駿河守。早雲が東国に下ってきたときに従ってきた人々の子孫である「御由緒家」の出身。氏康以降の北条三代に仕えて、武蔵河越城主、のち上野松井田城主。小田原攻めの際は居城を守ったが、前田利家らの攻撃を受けて降伏。その後は先導役となって成田氏の守る忍城攻めに加わる。小田原開城後は不忠者として秀吉により切腹させられる。子直次は一時遠山姓を名乗るが、のちに幕府に召し出されて旗本となり、旧姓に復す。

・松田憲秀 
【まつだのりひで】 ?-1590
 尾張守。松田家は早雲の代から北条家に仕えた重臣。小田原攻めでは籠城説を主張するが、秀吉家臣の堀秀政から伊豆・相模を与えるとの誘いがあると内応を約す。ところが、二男秀治が父の裏切りを北条氏直に密告したため未然に終わった。しかし、これにより城内は疑心暗鬼に陥り、落城を早めたとされる。小田原開城後に秀吉に切腹を命じられた。秀治は氏直に従って高野山に赴いたが、氏直の死後は前田家に仕えた。
 
・板部岡江雪斎 【いたべおかこうせつさい】 1537-1609
 名は融成。越中守。僧侶だったが氏康に右筆として用いられたという。のちに評定衆にも加えられる。外交官としても働いており、信玄が死んだ際には甲斐に赴いている。このとき武田家では信玄に容姿が酷似している弟の信廉を替え玉に立てたため、小田原ではしばらく信玄の生存が信じられていたという。小田原開城後は岡野姓に改め、秀吉、家康に仕える。
 
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