兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
来年のNHK大河ドラマは浅井三姉妹らしいから、スピードアップしないとね・・・。
「戦国人物紹介」
「戦国人物紹介」
009 武田信虎 【たけだのぶとら】 1494-1574 (前編)
左京大夫、陸奥守。
甲斐の守護、といってもそれだけで円滑に家督が継承されたわけではありませんし、甲斐一国を支配していたわけでもありません。信虎の祖父信昌は守護代跡部氏の台頭に苦しみます。ようやく跡部氏を排除して国政を掌握しますが、後継者問題でもめます。いったん長男信縄(信虎の父)に家督を譲って隠居したものの、信縄の弟信恵を後継にしようとしたため、武田家中は信縄派と信昌-信恵派に分かれて対立します。1505年に信昌が死去すると、ようやく対立は収まりますが、1507年に信縄も死去してしまいます。父信縄の死を受けて十四歳で跡を継いだ信虎は叔父信恵を討ち、武田家の統一に成功します。
しかし、この時点で甲斐一国を支配したとは言い難い状態にありました。東部には小山田氏、西部には今川氏と結ぶ穴山氏や大井氏が存在していました。信虎は小山田氏を攻め、これを服属させると、妹を嫁がせています。この小山田氏からはのちに小山田信茂が出ています。その後、今川氏、大井氏と争い、今川氏と和睦、大井氏からは大井信達の娘を正室に迎えています(信玄、信繁、信廉らの母)
一方で甲府に躑躅ヶ崎館を築いて城下町を整備しています。
いったん和睦した今川氏との戦いは続き、東方の北条氏、信濃の諏訪氏との戦いも始まります。1536年に今川家中で家督をめぐって争いが起こると、義元側を支援したため、今川氏との関係は改善し、娘を義元に嫁がせます。また、義元のあっせんで、嫡男晴信(信玄)の正室に京の三条氏の娘を迎えています。諏訪氏とも諏訪頼重に娘を嫁がせて和睦します。
戦うべきときは戦い、和すときは和す、と硬軟を使い分けて武田家の勢力拡大に努めた信虎ですが、1541年、娘婿の今川義元に会うために駿河に赴くと、晴信派によって甲斐への帰国をさまたげられ、そのまま駿河に追放されます。
甲斐を追われた信虎は、義元が桶狭間で敗死し、氏真の代になると、武田氏と今川氏の関係も微妙になったため、三条氏を頼って京に赴きます。しかし、徐々に武田氏と織田氏の関係が悪化すると、京にもいられなくなり、最後は甲斐を目指します。
武田領である信濃に戻った信虎は三男信廉のいる高遠城に入ります。一説には、信玄の後継である勝頼と対面、居並ぶ武田家臣の前で抜刀し、八十歳とは思えない太刀さばきを見せて信虎時代からの家臣を震え上がらせたとも言われます。
甲斐への帰国はかなわず、長篠の戦いの前年、信濃高遠で死去します。
PR
「戦国人物紹介」
■甲斐武田氏3
■甲斐武田氏3
武田氏の個別の人物に触れる前に前置きです。以下の視点を頭の片隅に置いていただければと思います。
ゲームと違って、実際の戦国時代において、主君と家臣の関係はいつも良好だったわけではありません。いまでは家臣と見なされている人々も「同盟者」に過ぎない場合もあります。木曾、小山田、穴山・・・。武田滅亡における「裏切り者」とされますが、いつから「家臣」となったのでしょうか。
さて、いわゆる家臣という人々は「一門」「譜代」「外様」などに分かれますが、特に一門や譜代などは彼ら独自の土地と領民を支配していることが一般的でした。当然、大名自身の権力とぶつかることもありました。支配を強化しようとする大名と家臣の間には緊張感が存在していました。この微妙な均衡の上に大名の権力が乗っていたともいえます。
武田信虎は他国から家臣を迎え入れて独自の軍事力を編成しようとしました。反抗する家臣を粛清し、甲府に城下町を作ったのも家臣統制の一環です。しかし、1541年、道半ばにして一門、譜代の代表とも言える板垣・甘利らによって追放されてしまいます。「暴君」の烙印まで押されて。そして彼らによって擁立されたのが晴信(信玄)です。当然、彼らの意向は無視できません。
信玄は信濃侵略を始めます。戦い続け、勝ち続けることで、家臣たちの支持を得ます。ここで、1548年、信濃攻めの最中、村上義清との上田原の戦いで板垣・甘利らが戦死してしまい、信玄の制約は大きく減ることになります。この前後、馬場、工藤(のちの内藤)、高坂などの家を復活させており、彼らは信玄の忠実な家臣として活躍します。
しかし、信玄は家中の統制に完全に成功したわけではありません。信濃攻めの最後、上杉謙信との川中島の戦いが終わる頃になると、再び武田家中に不穏な空気が流れます。信玄と嫡男義信の対立です。おもに駿河との外交方針をめぐって起こったこの対立は、最終的には1567年の義信の自害(病死とも)という形で幕を閉じます。このときに義信派として自害させられたのが飯富虎昌(山県昌景の兄)です。飯富は信虎追放のクーデターにも加担しており、今回で二回目になります。
このあと、信玄は家臣に起請文を書かせ、自らへの忠誠を誓わせます。臨終の間際に諸大名から誓紙を取って秀頼への忠誠を誓わせた秀吉と変わりません。信玄も対応を誤れば、信虎のように追放されていた可能性もありました。このように、戦国大名といっても初めから絶対的な権力を持っていたわけではなく、家臣の支持を失えば追放されたり殺されたりする危うさをはらんでいたのです。織田信長の場合と比較してみるのも面白いかもしれません。
ゲームと違って、実際の戦国時代において、主君と家臣の関係はいつも良好だったわけではありません。いまでは家臣と見なされている人々も「同盟者」に過ぎない場合もあります。木曾、小山田、穴山・・・。武田滅亡における「裏切り者」とされますが、いつから「家臣」となったのでしょうか。
さて、いわゆる家臣という人々は「一門」「譜代」「外様」などに分かれますが、特に一門や譜代などは彼ら独自の土地と領民を支配していることが一般的でした。当然、大名自身の権力とぶつかることもありました。支配を強化しようとする大名と家臣の間には緊張感が存在していました。この微妙な均衡の上に大名の権力が乗っていたともいえます。
武田信虎は他国から家臣を迎え入れて独自の軍事力を編成しようとしました。反抗する家臣を粛清し、甲府に城下町を作ったのも家臣統制の一環です。しかし、1541年、道半ばにして一門、譜代の代表とも言える板垣・甘利らによって追放されてしまいます。「暴君」の烙印まで押されて。そして彼らによって擁立されたのが晴信(信玄)です。当然、彼らの意向は無視できません。
信玄は信濃侵略を始めます。戦い続け、勝ち続けることで、家臣たちの支持を得ます。ここで、1548年、信濃攻めの最中、村上義清との上田原の戦いで板垣・甘利らが戦死してしまい、信玄の制約は大きく減ることになります。この前後、馬場、工藤(のちの内藤)、高坂などの家を復活させており、彼らは信玄の忠実な家臣として活躍します。
しかし、信玄は家中の統制に完全に成功したわけではありません。信濃攻めの最後、上杉謙信との川中島の戦いが終わる頃になると、再び武田家中に不穏な空気が流れます。信玄と嫡男義信の対立です。おもに駿河との外交方針をめぐって起こったこの対立は、最終的には1567年の義信の自害(病死とも)という形で幕を閉じます。このときに義信派として自害させられたのが飯富虎昌(山県昌景の兄)です。飯富は信虎追放のクーデターにも加担しており、今回で二回目になります。
このあと、信玄は家臣に起請文を書かせ、自らへの忠誠を誓わせます。臨終の間際に諸大名から誓紙を取って秀頼への忠誠を誓わせた秀吉と変わりません。信玄も対応を誤れば、信虎のように追放されていた可能性もありました。このように、戦国大名といっても初めから絶対的な権力を持っていたわけではなく、家臣の支持を失えば追放されたり殺されたりする危うさをはらんでいたのです。織田信長の場合と比較してみるのも面白いかもしれません。
「戦国人物紹介」
■甲斐武田氏2
また、武田家が人気になる理由の一つはある種定型化されたもので、三国志の蜀などにも通じる形だったりします。そこには、信玄自身が優秀な武将で、さらに武田二十四将と呼ばれる魅力的な家臣団がそろい(ちなみに、全員が一堂に会したことはない)、戦国最強と称されながらも、次の勝頼の代で滅んでしまうというカタストロフィ(悲劇)があります。
先に三国志の話をすると、劉備の評価は昔に比べると下がりました、というか、いまや一部では偽善者扱いですが、曹操や孫権(あるいは父の孫堅)のように初めから一族や家臣、豪族たちの協力があったわけではなく、劉姓の人物が一つの地方国家を作るまでになった(成り上がった)のですから、狡猾さがないはずがありません。
このあたりの再評価があって、現在の劉備の評価は一度下がってまた別のところで上がった形になっています。中国の地方政権とはいえ、徒手空拳の身から独立国家を築いて皇帝を称するまでに至ったのですから、その部分の評価はしなければなりません。
『三国志演義』自体を読んだことはなくても、演義ベースのメディアの影響を受けて、昔から蜀ファンは多いのですが、人気の一つは有名な武将が多いことでしょう。三国志を知っている人で、諸葛亮(孔明)、関羽、張飛などを知らない人はいませんし、演技では彼らが大活躍します。彼らの前では魏や呉の武将は引き立て役にすぎません。
それにもかかわらず、天下は取れず、滅んでいくところが(特に日本人には)人気になる理由の一つなのかもしれません。
武田家と三国志の蜀の人気の本質はまったく同じではないと思っていますが、共通するのは、優秀な武将(として描かれている)が数多くいながら、天下が取れなかった、というカタストロフィです。カタルシスを得ることができません。
武田信玄も劉備も孔明も天下を目指していながら、志半ばにして死んでしまいます。すっきりしません。もどかしささえ感じます。(劉備と孔明が天下を目指していたかどうかはあやしいが、少なくとも公には漢王室の復興を目指したことになっている。なお、孔明の北伐については後述)
信玄時代の強さ、華やかさが目立つだけに、滅んでいくさまが余計に悲しいのでしょう。源義経などもこのパターンで、戦にはめっぽう強く、彼以外が苦戦した平氏をいとも簡単に滅ぼすのですが、最後は兄の頼朝に嫌われて、奥州平泉まで逃れるも自害してしまいます。「判官びいき」という言葉もありますが、ただ弱いだけではダメで、強いところがなくてはなりません。「あんなに強かったのに」、落ちぶれて滅んでしまう、というのが本質にあります。武田家の場合は、信玄から勝頼と続く二代でこのストーリーを体現しています。最後に滅びるのがわかっているから、なおさら強い時代への思い入れが深くなるのです。

Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
コーエーの「戦国無双」でも仮面をつけていたが、隠しているのは業の深さか、虚ろか。
■甲斐武田氏2
武田家、というよりも信玄の人気は、のちに天下を取った徳川家が武田家の遺臣を多く召し抱えたこともあって、信玄を顕彰したことが大きく影響しています。
また、武田家が人気になる理由の一つはある種定型化されたもので、三国志の蜀などにも通じる形だったりします。そこには、信玄自身が優秀な武将で、さらに武田二十四将と呼ばれる魅力的な家臣団がそろい(ちなみに、全員が一堂に会したことはない)、戦国最強と称されながらも、次の勝頼の代で滅んでしまうというカタストロフィ(悲劇)があります。
先に三国志の話をすると、劉備の評価は昔に比べると下がりました、というか、いまや一部では偽善者扱いですが、曹操や孫権(あるいは父の孫堅)のように初めから一族や家臣、豪族たちの協力があったわけではなく、劉姓の人物が一つの地方国家を作るまでになった(成り上がった)のですから、狡猾さがないはずがありません。
このあたりの再評価があって、現在の劉備の評価は一度下がってまた別のところで上がった形になっています。中国の地方政権とはいえ、徒手空拳の身から独立国家を築いて皇帝を称するまでに至ったのですから、その部分の評価はしなければなりません。
『三国志演義』自体を読んだことはなくても、演義ベースのメディアの影響を受けて、昔から蜀ファンは多いのですが、人気の一つは有名な武将が多いことでしょう。三国志を知っている人で、諸葛亮(孔明)、関羽、張飛などを知らない人はいませんし、演技では彼らが大活躍します。彼らの前では魏や呉の武将は引き立て役にすぎません。
それにもかかわらず、天下は取れず、滅んでいくところが(特に日本人には)人気になる理由の一つなのかもしれません。
武田家と三国志の蜀の人気の本質はまったく同じではないと思っていますが、共通するのは、優秀な武将(として描かれている)が数多くいながら、天下が取れなかった、というカタストロフィです。カタルシスを得ることができません。
武田信玄も劉備も孔明も天下を目指していながら、志半ばにして死んでしまいます。すっきりしません。もどかしささえ感じます。(劉備と孔明が天下を目指していたかどうかはあやしいが、少なくとも公には漢王室の復興を目指したことになっている。なお、孔明の北伐については後述)
信玄時代の強さ、華やかさが目立つだけに、滅んでいくさまが余計に悲しいのでしょう。源義経などもこのパターンで、戦にはめっぽう強く、彼以外が苦戦した平氏をいとも簡単に滅ぼすのですが、最後は兄の頼朝に嫌われて、奥州平泉まで逃れるも自害してしまいます。「判官びいき」という言葉もありますが、ただ弱いだけではダメで、強いところがなくてはなりません。「あんなに強かったのに」、落ちぶれて滅んでしまう、というのが本質にあります。武田家の場合は、信玄から勝頼と続く二代でこのストーリーを体現しています。最後に滅びるのがわかっているから、なおさら強い時代への思い入れが深くなるのです。
Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
コーエーの「戦国無双」でも仮面をつけていたが、隠しているのは業の深さか、虚ろか。
■おまけコラム 孔明の北伐
諸葛亮(孔明)の北伐には別の側面がある、というかむしろその方が目的としては大きかった。
関羽の「暴走」によって荊州を失陥した時点で、孔明は天下統一、その前段階の天下三分の計をあきらめたと思うが、政権の正統性を確保すべく、蜀の国内向けに「漢王室復興」のパフォーマンスは必要であった。
一方で、北伐は超大国である魏に対する先制防御も兼ねていた。
「攻撃は最大の防御」というが、先制攻撃をおこなうことで、魏に防御態勢を取らせ、魏からの侵攻を防ぐことが目的である。そもそも、魏は蜀(という地域)を相手にしていなかったという事情もあるが。
孔明が後継者に指名しなかった姜維(人気は高いが)は特にこのあたりの事情を理解しておらず、北伐を繰り返して国力を擦り減らすという最悪の結果を招いている。国力を疲弊させずに戦争を継続した、というのは孔明の能力の非凡さを示すものだろう。
諸葛亮(孔明)の北伐には別の側面がある、というかむしろその方が目的としては大きかった。
関羽の「暴走」によって荊州を失陥した時点で、孔明は天下統一、その前段階の天下三分の計をあきらめたと思うが、政権の正統性を確保すべく、蜀の国内向けに「漢王室復興」のパフォーマンスは必要であった。
一方で、北伐は超大国である魏に対する先制防御も兼ねていた。
「攻撃は最大の防御」というが、先制攻撃をおこなうことで、魏に防御態勢を取らせ、魏からの侵攻を防ぐことが目的である。そもそも、魏は蜀(という地域)を相手にしていなかったという事情もあるが。
孔明が後継者に指名しなかった姜維(人気は高いが)は特にこのあたりの事情を理解しておらず、北伐を繰り返して国力を擦り減らすという最悪の結果を招いている。国力を疲弊させずに戦争を継続した、というのは孔明の能力の非凡さを示すものだろう。
「戦国人物紹介」
■甲斐武田氏1
■甲斐武田氏1
源義光(八幡太郎こと源義家の弟)の子義清が常陸那珂郡武田郷(現茨城県ひたちなか市武田)に住んで武田氏を称したと言われている。かつては甲斐国巨摩郡武田村に住んだことから武田氏を称したと言われていたが、いまは常陸説が定説のようである。
清和源氏であり、義光の子孫であるところは佐竹氏と同じである。小笠原氏や南部氏とも縁戚に当たる。鎌倉幕府ができるころには甲斐で一大勢力を築いていた。源平合戦の富士川の戦いで、平氏の軍が水鳥の羽音に驚いて撤退する場面があるが、これは武田信義が夜襲をかけたためと言われる。
一時は頼朝、木曾義仲、武田信義が鼎立するが、頼朝に屈服し、一時的に武田氏の勢力は後退する。鎌倉末期には再興し、甲斐守護のほか安芸守護の地位も得る。若狭や上総にも武田氏は繁栄し、蝦夷地の蠣崎氏も武田氏を称している。
また、穴山、大井、一条など多くの一族が甲斐国内に広がっていった。これらは武田氏を支える一方で、時に対抗勢力ともなった。信玄は偉大なるカリスマで彼らをまとめていったが、在地性の高い領主たちの統率に苦労したのはライバルの上杉謙信と同じである。
信玄の死後四男の勝頼の代に織田家に攻められ実質的に滅亡するが、子孫は江戸時代を生き延びた。大正年間、信玄に従三位が贈位されるにあたって、信玄の二男の子孫が正統とされている。
源義光-義清-清光-信義-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-信成-信春(信有)-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-晴信(信玄)-勝頼-信勝
甲斐武田氏に行く前にコラムを2つ。少し寄り道していきましょう。
■常陸と会津の地理的重要性
■常陸と会津の地理的重要性
常陸の佐竹氏、会津(陸奥南部)の蘆名氏の話をしましたが、もう少し広い視点で見てみるとどうでしょうか。
関東、東北地方には秀吉から停戦命令(私戦禁止命令、惣無事令と言われる)が出されていましたが、伊達政宗はこれを無視したまま戦線を拡大し、蘆名氏を滅ぼして会津を手に入れました。しかし、これは命令を無視したものとして小田原攻め後に、会津の所領は没収されました。
一方で、佐竹氏は江戸氏など常陸国内の勢力を攻めていますが、秀吉からのとがめはありませんでした。秀吉が佐竹氏の勢力拡大に寛容であったのは、北条氏のあとに関東に入った徳川氏、および伊達氏の牽制を考えていたためと言われています。
秀吉が政宗から没収した会津は関東にも奥州にもにらみのきく重要な地でしたが、これは蘆名氏(実質的には佐竹氏)には返還せず、みずからの家臣であった蒲生氏郷を入れています。
江戸時代になると、常陸には家康の子頼房に始まる水戸徳川家、会津には秀忠の子(保科)正之に始まる会津松平家が入りますから、この二つが秀吉にも家康にも東国支配において重要な地であったことがうかがわれます。
■佐竹義宣 【さたけよしのぶ】 1570-1633
全身甲冑姿の肖像画がかっこいい義宣ですが、評価はあまり高くないのはやむを得ないところです。
秀吉の暗黙の了解のもと、常陸統一に成功した佐竹氏は、本家が五十四万石となり、一族を配した岩城氏、多賀谷氏、蘆名氏(佐竹義広)、与力の相馬氏の所領まで含めると八十万石を超える大身となりました。一説に、徳川、前田、毛利、上杉、島津と並んで六大将に数えられたと言います。
検地に当たった三成が、佐竹氏の石高を八十万石から五十四万石に「まけて」軍役を軽くしたというのは、このへんの石高が混同されたものではないかと考えますが、三成と佐竹義宣(義重の子)の親交は事実だったようです。
秀吉の死後、いわゆる福島正則、加藤清正ら七将が三成を襲撃したときには、徳川家康、宇喜多秀家らとともに三成を救出しています。「治部(三成)が死んでは生きている価値がない」とまで言ったそうですから、二人の仲がうかがわれます。
律義で知られる家康も、義宣のことは「困ったほどの律儀者」と評しており、義理堅い一方で融通のきかない面もあったのでしょう。関ヶ原の戦いでも三成方に味方しようとしたため、戦後、佐竹氏は常陸五十四万石から出羽秋田二十万石へ減転封されることになります。
安房の里見氏もそうですが、江戸に近い常陸に勢力を持った佐竹氏ですから、関ヶ原で東軍に属したとしても、いずれ領知替えになった可能性はありそうです。そこには天下を治める幕府の意思が働きますから、佐竹義宣だけを評価しても一方しか見ていないことになります。義宣に低い評価を与えることは簡単ですが、彼の意思だけではどうにもならなかった要素もあります。
そこまで理解して行動できれば父親並みの評価にはなったのでしょうが・・・。
秀吉の死後、いわゆる福島正則、加藤清正ら七将が三成を襲撃したときには、徳川家康、宇喜多秀家らとともに三成を救出しています。「治部(三成)が死んでは生きている価値がない」とまで言ったそうですから、二人の仲がうかがわれます。
律義で知られる家康も、義宣のことは「困ったほどの律儀者」と評しており、義理堅い一方で融通のきかない面もあったのでしょう。関ヶ原の戦いでも三成方に味方しようとしたため、戦後、佐竹氏は常陸五十四万石から出羽秋田二十万石へ減転封されることになります。
安房の里見氏もそうですが、江戸に近い常陸に勢力を持った佐竹氏ですから、関ヶ原で東軍に属したとしても、いずれ領知替えになった可能性はありそうです。そこには天下を治める幕府の意思が働きますから、佐竹義宣だけを評価しても一方しか見ていないことになります。義宣に低い評価を与えることは簡単ですが、彼の意思だけではどうにもならなかった要素もあります。
そこまで理解して行動できれば父親並みの評価にはなったのでしょうが・・・。